競争社会

 


競争社会。


この競争ということは、今の世界で普通にある。


雇用の中心は、企業で、
企業活動の基本として「市場での競争」がある。

「競争に負けたら倒産してしまう」といった危機感をもって、仕事をしていかなければならない・・・といった思考パタンはとても普及しているように思われる。

 


「学歴競争」も今も普通にあって、より高い点数を取って、よりよい大学にいって、そうすればより給料の高い企業に入って・・・・幸せになれるはずだ・・・・といった思考パタンも、社会全体で普及度の高い思考パタンに思える。


マルクスが「疎外」ということを言っていると、こないだ教えてもらったのだけど、この競争社会とは、疎外そのものだなと思う。


自分自身に正解はなく、外側に正解があり、
外側に対処できる自分になること、

それが生き方として奨励されることになる。

競争社会では、根底は生存戦略
「対応できなければ滅ぼされてしまう」というベースの世界観がある。


この「対応できなければ滅ぼされてしまう」という世界観で、
今の世界の多くの部分が成り立っている。。。


なぜ、どのようにして「競争社会」が生まれてきたのか、それについても興味はあるけれど(縄文時代とか、江戸時代とかは、社会のなかでの競争性は低かったんじゃないか、、、みたいな印象も持っている)、それよりも、今ここにおいて、そして未来において「競争社会」を維持していきたいかどうか、が大事な問題だと思っている。

 


▼勝者も敗者も”満たされない”構造


競争社会では、もちろん勝者と敗者が生じる。

敗者は、得られる収入もすくなく生活の自由度も低く、満たされない。

しかし、勝者もまた、満たされない。


勝者は「自分自身」を大切にしてきたわけではない。
むしろ自分を殺して「市場に適応する」ことに長けていたりする。

自分を殺しているから、勝者になれる。
自分を殺すことをやめたら、敗者になってしまう。

だから、自分を殺し続ける。だから、いつまでたっても満たされない。


自分自身を生きていないので、満たされていない。
満たされていないので、外在化された価値基準においてなんとか充足を得ようとする。
映画「華麗なるギャツビー」みたいなものだ。


勝者は「私は幸せだ」と喧伝する必要がある。
根本的に満たされていないから、周囲からの賞賛を常に必要とする。

 

・・・もちろんここで書いていることは極論で、実際の「一人の大金持ち」が、絶対に全員満たされていない、などということにはならない。でも、こういう構造を持ちがちだということは、競争社会の特性として言えると思う。


満たされていない勝者は、不安から「より富を蓄えよう」とする。
自分自身に自信がないので、自信の根拠となる富を蓄えておきたくなる。

 

マネーゲームに長けた勝者は、金利なども上手く活用するので、より多くの敗者を生み出していく。

競争社会は、満たされない勝者と、満たされない敗者を大量に生産していくことになる。

 

▼「対応できなければ滅ぼされてしまう」という世界観を、ベースの世界観として共有することは本当に効果的なのか?


もちろん例外もあるが、私たちの多くは「競争社会」という前提を子供時代から刷り込まれていく。学歴競争、収入競争、企業ブランド競争・・・そういった競争のなかで「個人がいかに勝ち抜くか」ということを、刷り込まれていく。

周りは敵である。限られたイスを奪い合っている。友達が合格すれば、自分は不合格になる可能性が高まる。


「全体」を考えることはなくなる。「自分が生き残ることが大事だ」ということになる。だから、クラス全体とか、学校全体とか、社会全体にとっての共通善は何か?共通善のために自分はどうありたいか?などを考える機会はほとんどない。


自分だけのために頑張る。それが生存戦略。そして「神の見えざる手」理論で、それがよいことだとされる。一人一人は、自分自身の私利私欲を追求すれば「市場」が、勝手にそれを調整してくれる。


・・・けれど、競争社会においては「市場」は、実際にはそんな素晴らしい調整を果たしてくれてはいない。ここまでの「事実」がそれを物語っている。


もし、そのような競争社会を前提とし、市場の調整が完璧に機能するのだとしたら、例えば一つの要素として、社会においてこれほどの自殺者の数はないだろう。何か、機能不全の部分があるはずだ。(自殺ということも、調整の一部と考える考え方もあるかもしれないけれど、僕はそれには与することはできない)

 


競争社会では、子供たちは、生まれてすぐに「外在化」される。
あなた自身がどうしたいとか、どう生きたいかよりも「社会が求めるキャラクターになりなさい」と言われる。貴方自身の好みや、思考や、価値観などには価値がない。
競争社会で生き抜いていくには、社会が求めるものに対応できるようになりなさいと教育される。

競争社会においては、その教育は合理的だから。


そして、前述したように、それに適応できる満たされない勝者か、それに適応できない敗者を生み出していく。


敗者になってしまえば、冷たく自分を突き放してくる「社会」。
その「社会」に適応できるように頑張りなさい。

自分に冷たくしてくるモノに対して、生き残るために、尽くしなさい、

そう言われて育つことになる。


実際に「資産を貯めたらリタイアして、自分がやりたいことをやりたい」というような勝者も多い。満たされていない、ということが分かっているのだ。

だから、資産として不動産や金融資産をもって、不労所得を得て、労働所得者から「金利収入」を得て、やっと安心して、自分のやりたいことをやれるようになる。田舎でのんびり釣りをする。そんなことが起こったりする。


「のんびり過ごす」というようなことは「競争社会を生き抜けるだけの資産を築いた人だけの特権」みたいになる。


競争社会で、自分を殺して頑張ってきた人は「自己責任論」が大好きだ。
敗れた人間は努力が足りなかった。その人間自身の責任だ。そう言う。

累進課税みたいなことも嫌いである。「どうして、この恐ろしい競争社会を生き抜くために死ぬ思いで稼いできたのに、努力不足の敗者のための社会保障なんかのために、より多くの税金を納めないといけないのか」と言う。

そりゃそうだろう、「自分を殺して頑張ってきた」ことが報われない。


競争社会を前提とするのなら、累進課税なんて、整合性がない。


希望格差社会で描かれたように、格差が相続される世界においてそもそも「公平な」競争が行われているのか、という議論はそれはそれで大事)

 

▼非競争社会だとダメなのか?

そもそも子供に接する時に「あなた自身に価値がある。あなた自身が、自分がしたいと感じることをすればいい」と育てると、それは問題があるのだろうか?


十分に自己受容を持った子供が育ちそうである。


「自分がしたいと思ったことしかしない」となると、おそらく二つの困ったことが起こる。

一つは「周囲の人が、それをしたくないときはどうするか」ということ。

もう一つは「飢えてしまったらどうするか」ということ。

 

自分は例えば、サッカーがしたい。
でも、周りの友達はみんな野球がしたいという。
そうしたら「自分一人でリフティングでもするか、みんなに合わせて野球をするか」などを選ばなければならない場面は出てくる。

そして、それも、本人が選べばいいだろう。そこで感じる葛藤なども含めて、そうやって「社会」の中で生きていくことを学ぶ。

もう一つは、例えば「画家になる」などと言って、毎日絵を描いているが、一枚も絵が売れない。収入がない・・・などということになる。


その時も、理屈でいえば、本人が選べばいいと思う。「餓死してでも、他のことはしない」とするのか。「好きな絵を描けなくなるのも嫌だから、バイトくらいするか」みたいにするのか。


このように「競争」という文脈が出てこない育てられ方をした人間たちが形成する社会は、それほどひどいものになるのだろうか?


ここには、勝者もいないけれど、敗者もいない。
でも、みんな「満たされている」。自分人生を生きている。自分の人生を謳歌している。
外在化された一つの価値基準に、自分自身が疎外されたりしていない。(そんな社会なら治安も良くて治安維持費とかも少なくてすむ、健康な人が多くて医療費も少なくてすむ・・・なんて気もしてくる)


感謝、を適切に持つこともできるだろう。

社会全体や歴史について適切に学んでいることで「蛇口をひねれば水が出てくるのは、水道局の人たちが日々支えてくれているのだなぁ・・・」といったことを感じる感性は、社会のなかで身に着けていくこともできるだろう。

「支えてもらっているから、自分も恩返し、恩送りしていきたいなぁ」というような自然な気持ちが醸成されていくこともあるかもしれない。


そのような育てられ方をしていったとして、何か問題があるだろうか。


生活保護は、ベーシックインカムとは違うのか。


ふと疑問に思ったことがある。
日本には「生活保護」という仕組みがある。

これは「日本国民として生まれたからには、最低限の生活は国が面倒を見るよ」というような仕組みだな、と思う。


これはベーシックインカムと何が違うのだろうか?

「最低限のところは、国が絶対に面倒を見るよ」と言っているのだ。
確かに「一律で、毎月定額振り込まれる」ではない。

でも「最低限になったら」「毎月定額が振り込まれる」仕組みは既にあるのだ。

 

・・・・もう一つ関連して、なぜ自殺者がこれほどいるのだろうか。
生活保護、という仕組みはある。だとすれば、衣食住に困窮して死ぬわけではない、という理屈は言えると思う。

 

・・・それはやっぱり競争社会のパラダイムなのだと思う。
「敗者」というレッテルが、人間にとってとても苦痛なものなのではないか。

生活保護を利用しなければならないほど困窮した」という状況に対して、競争のパラダイムは、敗者のレッテルを押すだろう。

だから、生活保護は、「ベーシックインカム」というようなニュアンスを持たない。


ベーシックインカムは敗者への保護策、ではないのだ。
ベーシックインカムは「命は、等しく、どれも大切」という思想の現れとして、ある。

実は逆に言えば「命は、等しく、どれも大切」という世界観が共有化されたときには、今の「生活保護」の仕組みであっても、仕組みとしては既に十分なのかもしれない。

 


・・・社会全体のパラダイムのようなものが、変容していくことを願ってやまない。