「幸せの形」は自分で決める~ヒューマンセンタードの考察

人は納得したい生き物だと思う。


「やらされ感」でなんか、仕事したくない。

 

「やらされ感で仕事したいですか?」と聞いたら、100人が100人「そんなの嫌に決まっている」と、言うんじゃないかと思う。

 

ところが、実際には「いやいや仕事をしている」とか「致し方なく仕事をしている」とか「仕事をしなくていいのならしたくない」とかっていう人が溢れている。悲しい。

 

どうせなら、楽しく働く人ばかりの世界がいい。
そう思う。

 

みんなに楽しく働いて欲しい、楽しく生きて欲しい。
そう思う。

 

個人の側の努力もあるけれど、構造の問題もあると思う。

 

僕は就活塾とかパーソナルコーチングをやってきて「個人の側の努力」も支援してきたと思う。組織開発の仕事をして「構造の問題」にも取り組んできたと思う。

 

それで今、自分なりに一つの持論を持つに至り、
それをここに書く。

 


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「一人一人が本当に幸せな世界」

そこを起点に考えていく。(だから、ヒューマンセンタード、と呼びたい)

 

 

幸せは、「感じる」もので、極めて主観的なものだと思う。
同じシチュエーションでも、ある人にとっては退屈、ある人にとっては至福、ということはありえる。

 

だから「一人一人が本当に幸せ」であるためには、ユニークな唯一無二な唯我独尊な、その一人が「私は幸せ」と思えることが、決定的に重要だ。

 


・・・ところが「幸せの形」というのは決まっていて、それに沿って生きることが幸せで、それから外れたら不幸になる。そんな常識、物語、文化、ナラティブが、いつからなのか、社会には存在している。


マルクスはそれを「疎外」と呼んだらしい。外在化された「外側の幸せ」を、必死に求めて、必死に獲得して、必死に保持して生きようとする。・・・悲しい。


今の世界は「金銭単一軸での競争社会」になっている。

 

収入・資産が増えれば「幸せ」で、収入・資産が少なければ「不幸せ」というような、とても単純すぎる常識、物語、文化、ナラティブが、まだまだ大きく存在していると思う。

 

でも、コロナもあって、その常識や文化は、今着実に崩壊しつつある。

 

ずっと「おかしい」と思ってい人たちも多いし、「金銭単一軸での競争社会」から降りた人たちもいる。そういう実践例もたくさん見てきた。けど、まだまだ、そういった人たちはマイノリティだったと思う。

 

 

金銭単一軸での競争社会は、勝者と敗者を生んだ。そして一部の「真の勝者」と、一部の「降りた人たち」を生んだ。

 

金銭単一軸での競争社会が激烈になったのは、おそらく割と近年の話だと思う。多分、戦後くらいのことじゃないかと思う。学歴競争、いい会社に入る競争、そういう競争が、社会の基本的駆動力とされていた時代は、戦後のこの60年、70年くらいのことかもしれない。

 

僕は歴史学者ではないので戦前のことや、江戸時代のことなどは分からないけれど、これほど「金銭単一軸での競争社会」ではなかったのじゃないか、などとおぼろげに思ったりする。

 

今の子供はどうだか知らないけれど、僕が生まれた昭和の時代は「競争社会」真っただ中だったと思う。「勉強しなさい」と、ほとんどの子供が言われた。「いい大学に行くために」「いい会社に入るために」、それが幸せの形で、それができなければ幸せには生きていけないんだよ、と教えられてきた人は、とても多いのではないかなと思う。

 

「貴方にとっての幸せは?」「貴方はどう感じる?」そういうことを聞かれて、それを大切にされる、それを生活に中心にされる・・・ということはなかった。


幸か不幸か、僕自身はあまり「親の常識」から逸脱する嗜好性を持っていなかった。親の目をうかがっていたということでもなく、単純にそういう嗜好性だったなと思う。

 

部活でバスケットボールに夢中になるとか、三国志にハマって本を100冊も買い込むとか、それは「常識の範囲内」だったと思う。

 

でもとにかく「幸せの形」は決まっていて、それに沿って生きられるように教育する。そういう世界だったと思う。親も、暗黙的にそう思っていて、だから親の愛も「決まった幸せの形」に、子供を矯正していく・・・・という形で発露したことも多いと思う。


今、不登校の数は、非常に多いらしいけど(数は調べてない)、この「疎外」「矯正」を本能的に拒否する子供が増えたのだろうと思うと、僕は喜ばしくすら思ってしまう。「学校という正しさ」よりも「子供の気持ち」を尊重する親御さんが増えている、ということでもあるかもしれない。

 

もちろん、一つ一つのご家庭の苦労などは、分かりもしないことだけど。。。


学校に入って、少なくとも僕の世代は、中学、高校は「学ぶべき教科は決まっていて」「その教科の点数が高いこと」が、そのまままるで人間の価値の高低を現しているかのようになっていく。

 

就職活動で突然「自己分析」なるものが求められて・・・ということがあるんだけれど、それについてはここでは詳述は避ける。


学校を卒業して、社会に出て、多くの人は「会社」に入るけれど、会社でも同じ構造が続く。「評価項目」は決まっていて、評価項目に沿って評価される。高い評価を得られるように頑張る。


ゲイリーハメルは「従順」は、付加価値への貢献が低いということを言っているんだけれど、残念ながら、僕が生きてきた社会ではまさに「従順さ」をずっと求められてきている。

 

自分が目標を設定することなど基本的にない。
「外側から求められるもの」に応えていくのが人生。
そういう風に、社会構造そのものがなっているのだ。

 

「なんかおかしい」と思っていたとしても、真面目な日本人は「その構造の中で、なんとか頑張る」をしてきているのだろう・・・と思う。

 

僕は独立して数年したころ、独立の相談がよく来た。「会社員と言う王道のコース、つまり幸せの形から逸れる、外れる、それ怖くなかったですか?」ということが、共通した相談内容だったと思う。それほどまでに「外れる」ということが、怖い社会がずっと続いていたのだろう。

 

2010年時点の社会と、2020年現在の社会とでも違いはあると思うけれど。たぶん、コロナもあって「王道を外れてもいいんじゃないか」と思った人もたくさんいると思う。一方で「やっぱりこういう時に、大企業にいたほうが給料も減らないし安心だな」という気持ちも起こったりしていると思うけど。

 

・・・・「一人一人が本当に幸せ」な社会でありたいと思う時に、この疎外、外在化が普通になっている社会構造そのものに、僕は違和感を感じている。


僕自身は運よく、向こう見ずな性格で、えいやと「幸せな形」から降りてしまって、しかも幸運が重なっていて、「やりたい」と思うことが「お金になる」仕事でもあったりしたから、すごく頑張りやすかったというのはある。


個人の努力で「幸せの形は決まっている」という世界から脱出した人たちはたくさんいる。でもまだ、それほど多くはないと思う。やっぱりそれは「幸せな形は決まっているんです」という構造の強さがあって、よっぽど無謀な人とかじゃないと、そこからなかなか降りられないのだと思う。


個人でできる努力もあるけれど、
構造そのものを変えていく必要性もまたあるのだと、個人的には思っている。

 

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個人にフォーカスして言えば、

個人の幸せから考え始めてみるのであれば、

まず初めに「どんな人生を過ごしたいですか?」ということを問わなければならない。


僕はパーソナルコーチングなどをしていたときにも

「人生の車輪」と「理想の時間割」というワークを多用してきた。

今でも必要なタイミングではよく使っている。


どんな場所に住んで、どんな時間の使い方をして、どんな感情を味わう1週間で・・・ということを描き出してもらう。

 

ようはこれは「幸せの形を、自分自身で決める」行為であり、大げさに言えば儀式なのだ。

 

自律分散というキーワードを目にすることが最近増えてきているけど、
まず「自律」ということがとても大事。


・都心と田舎の二拠点生活をしたい
・年収は500万円は欲しい
・週休4日がいい。
・教育の仕事がしたい。

 

例えば、それが「私の幸せの形」だと。

 

でも例えば、今の実力や単価だと「週休4日にすると、年収300万円になっちゃう」「年収500万円を取ろうと思うと、週休2日以下になるだろう」というようなことはあるわけで、その現実は引き受けて「じゃーどうしよう?」と、自分なりに考える。

 

これが「自律」ということだと思う。

 

この自律、というのはとてもとても大事なところで、
これからの生き方の起点となるようなものじゃないか、と思っている。

 

ここを自分自身で引き受けて「自分で納得する」ということが、とても大切だと思う。

 

インサイドアウトで「自分の望み」を素直に描いて
アウトサイドインで「現実とのギャップを引き受ける」

 

これが自律ということだと思う。


ギャップがあることは悪いことじゃない。
ピーター・センゲ「学習する組織」ではそれは「クリエイティブテンション」と呼ばれている。創造性の源は、ギャップにある、ということだ。


Time is Moneyという言葉があるけど、これは個人的には修正したい。

Time is Lifeだ。

「時間を過ごす」ということは「命を使う」ということ。命とお金、どっちが大事かって命に決まっている。

お金は、命の、人生の、時間の、ツールの一つに過ぎない。

「幸せの形」のパーツの一つに過ぎない。


ヒューマンセンタードの肝は「自律」だなと思う。

 

一旦、バラバラになった「個人」が、でもまたミッションの重なりや、ライフスタイルの重なりで共同体を形成していくだろう。自律分散協調というのが起こると思う。そこでは(ヒエラルキー構造ではなく)ネットワーク構造が生じ、命令と評価ではなく、対話による「全体性の担保」が起こるだろう・・・ということについては、また今度。

 

そして、個人的には「計画された成果を生み出す」という計画経済ではなく「方向性はあるけど、いつどこで、どんな”成果”が生まれるか分からない」という創発付加価値の世界を生きるのが、楽しいだろうと思っている。

 

ただ、世界がどちらだけになってしまう、ということではなく「計画経済」圏と、「創発付加価値」圏とは、社会の中に共存して、お互いの弱点を補完し合うような感じになるのかもしれない、と思う。中沢新一さんのロゴスが前者で、レンマが後者、ということになるのかもしれない。

 

計画経済圏は、世界観としてニュートン力学的な「閉じた系の再現性」を重視することになる。創発付加価値圏は、「開いた系」であり、複雑系であり、量子力学的な関係性と流動性の世界だということだと思う。


社会的な問題としては計画経済圏の住人は、創発付加価値圏の価値が見えないということ。「お金」は計画経済圏が持っている。でも、そのお金は創発付加価値圏には流れてこない。なぜなら計画経済圏の人たちを「説得する言語」を持っていないから。

この壁をクリアするのには、一つにはベーシックインカムのような社会制度がありそうだと思いつつ、この辺の探求はより一層深めていきたい。より具体的なアイデアを出せるようにしていきたいなと思う。