5/3現在、コロナで感じていること

 
 
感染症パンデミックなどは、社会の状態をデフォルメする機能があるという。
今回のコロナで「浮かび上がってきた」ことは、人それぞれだろうと思う。
ひとまず、僕にとって「浮かび上がってきた」ことを書いてみる。
 
 
 
■「濃厚接触」の豊かさ
 
ライブなどができない。
 
埼玉で行われたK-1がやり玉になって、そこから多分ほとんどの「イベント」的なものはなくなっているだろうと思う。
 
そして代わりに、多くのアーティストなどが、Youtubeなどで動画を配信したりして「自宅待機」を少しでも楽しませようと頑張ってくれている。
 
 
そうして、多くの人が感じているのは「濃厚接触」の意味や、素晴らしさじゃないだろうか。
 
やっぱり、Youtubeでみんなでスレッドを共有してライブを見ても、ドームでみんなで一緒にライブするのには敵わない。
 
孫がおばあちゃんとテレビ電話しても、「一緒に遊ぶ」にはやっぱり敵わない。
 
恋人同士が、キスやハグをすることは、バーチャルでは叶わない。
 
 
自粛ムードが強まった桜の時期は、桜すら見れなかった。今のデータを基にしたら「距離を取って散歩しながらなら見てもいいですよ」とかなっていたかもしれないけど。桜なんて「生」で触れないと、意味が失われるものの代表格だと思う。
 
生の価値、ライブの価値、「今」の価値、「一緒にいる」ことの価値。そういうことの価値を、ひたすら感じる経験になったんじゃないか、と思う。
 
 
これからも、技術的には、VRやARなども進んでいくだろうと思う。必要に応じて「オンライン飲み会」と「オフライン飲み会」は使い分けられるようになるのかもしれない。
 
もちろん、デジタルやバーチャルの価値はあるし、そこでしかできないことも多々ある。zoomは「話し合う」ことの物理的距離を一気に縮めてくれている、とかもあると思う。
 
 
でも、それでも残る「濃厚接触」に、人間がとても価値を感じるのではないか。ある意味「リスクを犯してでも」濃厚接触をするということは、それだけの愛情や、価値や、意味などがそこにある、ということだろうと思う。
 
 
"Live"ということの尊さや貴重さということを、嫌というほど実感する機会になった、と僕は感じている。
 
 
 
■リモートワークの「できる」と「できない」
 
一方で「なんだよ、満員の通勤電車に乗らなくても結構仕事になるじゃないか」みたいなことも多々体験されてきているのだろうと思う。
 
実は「オンライン」とか「デジタル」でできることもたくさんある。
 
僕の仕事の一つは「研修講師」だけど、研修講師仲間の多くが「e-laerning」に対して、懐疑的だった。「やっぱり、ライブだよね」と。でもこのコロナの状況になって、オンラインでの研修をせざるを得ず、実際にやってみると「意外といいんじゃない、オンライン」となっている。正直、僕もその一人だ。
 
オンラインでできることも、たくさんある。
 
オンラインでできることは、オンラインでやればいい。分かりやすく一番短縮されるのは「移動時間」だ。
 
オンライン医療診断で、移動時間が無くなる。
オンライン会議で、移動時間が無くなる。
 
もう一つオンラインのいいところは「距離の壁」がなくなること。
 
実際に僕も、たぶんこの状況下でなければなかったであろう「滋賀の人たちとのオンライン対話」を経験した。対話、ワークショップといったことも、オンラインでかなりの部分出来る。
 
オンラインでできると「人数制限」も減ってくる。会場を借りてワークショップをするのなら、会場費もかかるし、集められそうな人数の会場を予約する、などという計算をしなければいけない。
 
けれどオンラインのイベントなら「会場費」も「会場人数」も考える必要性がぐっと下がる。
 
オンラインでできること、オンラインの方がむしろやりやすいこと、オンラインの方がメリットが多いこと、がたくさん浮き彫りになったように思う。
 
一方で「やっぱり出社したい」とか「出社しないとできない」ということも、見えてきたように思う。
 
会社のことが好きな人たちほど「出社したい」「一緒に仕事がしたい」という欲求があることを感じる。「職場」は、単に機能的に仕事が遂行されればいいだけではなく、それ以上の何かの価値を持っている。
 
それから、スーパーマーケットのように「そもそも出社しないと仕事にならない」ものがあることも見えてきたと思う。
 
「ハンコを押さないといけないから出社しないと」みたいなことは、いち早くオンラインでできるようになればよい、といった「残課題」みたいなことも見えてきたと思う。
 
もう一つ「カフェでのおしゃべり」みたいなこと。これはオンラインで代替できる部分があるなと思いつつ、でも完全に代替できるわけではやはりない、とも思う。このグレーゾーンの研究は、今後人生の意味や価値の理解を深める糸口になるかもしれない。
 
「一緒にみている風景」とか「一緒に感じている風」とか「取り分けて食べるご飯」みたいなことの意味や価値。でも、言語コミュニケーションだけでいえば、オンラインでもあまり劣化しない。この辺は大変興味深いと思う。
 
オフィスでいえば「タバコ部屋」みたいなものは、オンラインで代替することはとても難しそうに今のところ感じている。タバコ部屋は「自分のタイミングで行く」「たまたまのご縁で同じタイミングで吸う」「なんとなくスモーカー同士の連帯感がある」みたいな要素があると思うけど、あれはオンラインではなかなか実現されない「場」だなと思う。
 
 
■「ライフライン」の尊さ、重要性
 
多くの「不要不急」に自粛が求められる中で、ライフラインとして活動の継続が必要、求められているものがある。
 
病院。スーパーマーケット。宅配便。農家、漁師。などなど。
 
これらの多くが「オンライン」ではできない。
 
もっと技術が進めば「ロボットがコメを育てて、農家はオンラインでロボットを操作する」とかっていう時代は来るかもしれない。
 
でも少なくとも今は、そうはなっていない。
 
スーパーマーケットもそうだ。未来はもしかしたら全部AmazonGoみたいな無人スーパーになるかもしれない。でも今時点ではそうでなく、今時点では、日本人にとってスーパーはとても大切なライフラインなのだ。
 
そこで働く、例えば「レジ打ちのパートのおばちゃん」は、命を懸けて、ライフラインをつないでくれている。
 
こういった仕事の、尊さ、重要性ということを、これまた嫌というほど感じる経験を今していると思う。
 
もう一つ「子育て」もオンラインではできない。保育士さんなどの仕事は、オンラインでは代替できない。ざっくり10歳以上ならオンラインでできることも増えるだろうが、10歳未満は「一緒にいてくれる」ことが、とても大切だ。
 
・・・個人的には、問題を感じているのは「保育士」「農家」「漁師」「スーパーのレジ打ち」「宅配便」「看護師」といった職業は、一般的に言って決して「高給取り」ではない。これも、個人的にはあらためて違和感を浮き彫りにされている。
 
 
■「固定費」特に「家賃」の重さ
 
さて、これほど多くの人が「困った」状態になっているのは、一つには「家賃(住宅ローン)」という存在が大きい。家賃は、いわゆる固定費の中で、多くの人にとって最大のものだろうと思う。
 
もし家賃というものが世の中になかったら、「不要不急の外出を控えてください」「経済より命が大事です」と言われても、困る人は非常に少なかっただろうと思う。
 
もし国民みんなが半農半Xでかつ「家賃を払う必要のない持ち家」に住んでいたとしたら。もしそうなら「へー、しばらくとりあえず農作業に勤しむか」でおしまいだったと思
 
食べるものは自分で創る。とりあえず雨露をしのげる家はある。だとしたら何もジタバタする必要がない。
 
でも今ジタバタしないといけないのは、一つには「家賃」です。ホテルも、飲食業も、なぜみんな困るかと言えば「売上は立たないのに、固定費として家賃は出ていく」から。だから赤字になる。
 
これが変動費だけであったら「赤字」にはならなくてすむ。「収支ゼロ」ですむ。これは全然違うこと。
 
この固定費として家賃・・・これは考えざるを得ない。
 
ちなみに「家賃収入」は不労所得の最たるものだ。
それがまさに「不労所得」であるということを、往年のベストセラー「金持ち父さん貧乏父さん」がまさに言い当てていた。
 
働かないで(不労)で、場所貸しだけで収入を得ている不動産所有者。
働いて(労働)で、日銭を稼ぐ飲食店の店主。
 
このどちらが今、苦境にあるのかは一目瞭然です。
 
このことは、このまま放置し続けていいのか、とても大切な問題だと思うし、それが「問題である」と、今回のコロナは浮き彫りにしてくれたように思う。
 
 
■お金の巡りの悪さ
 
上記の「不労所得」もそうだけど、少し前に「NYダウが暴落している。大問題だ」みたいなニュースを見て、僕が憤ってしまったことを書いたんですが。
 
あらためて書くと「株価が下がっている」ということは「持っている株を売った人が多い」ということ。そして株を売った人は、手元に現金を持っている。(買った時より、売った時の方が株価が下がっていたとしても、手元に現金がある、なのは間違いない)それは言うならば「お金がだぶついている」ということなわけで。
 
そして、その手元の現金で「次に買う株がない」となっているから、株価が上がらないでいる、というのが"株価が下がっている"という現象が起こる。
 
でも「お金を必要としている」ところはたくさんある。家賃が払えなくて廃業しないといけないかもしれない飲食店、防護服が足りない病院、自宅待機でDVの可能性が高まっているところを支援するNPO・・・いくらでもお金を必要としているところはあるのだけどれど、そこにはお金が回ってこない。
 
お金はだいぶついているのに、お金が必要なところに回ってこない。
 
なぜそれが起きるかというと、お金は「殖やすものだ」という概念があるからだ。それは基本的に今流通している通貨は全て「金利を背負って存在している」から。
 
だから「殖やせそうもないな」というところにはお金は回ってこない、今の社会では。それでめぐりが悪くなってしまう。
 
なぜ、いまこれほどまでに「多くの人が困った」状態になっているかというと、それは金利の存在が大きいわけです。家賃、というものも金利の兄弟です。株価がさがる、というのも広く言えば金利の話なのです。
 
金利はお金の巡りを悪くするところがあります。拡大局面では、金利はほとんど問題なく機能するけど、縮小局面では、デメリットが非常に大きく見えてくる。まさにパンデミックは「強調する」「浮かび上がらせる」のだなと思う。
 
世界全体で見るともしかするとまだ「拡大局面」を続けられるのかもしれないけど(個人的には全くそう思ってないけど)、少なくとも日本社会は、少子高齢か、さらには人口減少社会になって、「縮小局面」に入りつつあるわけで。
 
その「縮小局面」において、今までと同じように「金利」を社会においておくとどうなるのか。減価する貨幣がいいのではないかとか。このことについては真剣に議論されるべきだろうと思っている。
 
 
 
■政府の肌感覚のズレ
 
もう一つ、今回「政府は何やってんだ」と思った人もたくさんいるのではないかなと思う。
 
アベノマスクなどと揶揄されたりしていますが、どうにも自分たちの感覚と合わない、そう感じている人も多いのではないかと思う。
 
政府の感覚と、自分たちの肌感覚がズレるのは当然と言えば当然で、日本の国政選挙の投票率はだいたい50%前後ですから、国民の半分ほどは「政府を選ぶ、という行為に参加していない」わけです。
 
だったとしたら、そりゃズレていても不思議じゃないよな、というのは前提としてあります。
 
議会制民主主義というのは、なかなか難しい。
 
少なくとも今の政治の仕組み、民主主義の仕組みとしては「日本社会の多様性を反映する、多様な議会」にはなりにくい。
 
例えば分かりやすく、マイノリティは議席をほぼ獲得できない。小選挙区制においては「選挙区で一番人気」の人だけが議員になるから。もちろんマイノリティを代表する議員は「一番不人気」になる。なぜなら、マイノリティですからね。
 
でも、国全体の分布図でいうと、例えば「男性46%、女性45%、レズ4%、ゲイ3%、その他2%」みたいな分布があったとしたら、議員は「男性51%、女性49%」みたいになるわけですね。それが小選挙区制の、政治制度です。
 
少なくとも、そもそも国会が「多様な市民の状態を代表する(反映する)場」になっているためには、例えば「全て比例代表で選ぶ」みたいなことをする必要があるかもしれない。(それはそんな単純な話でもないのけど、一つの選択肢として)
 
民意をしっかりと国会に届けるためには、こういった政治の仕組みについても私たちは考え、変えていく努力をしていかなければならないのだと思っている。