「幸せの形」は自分で決める~ヒューマンセンタードの考察
人は納得したい生き物だと思う。
「やらされ感」でなんか、仕事したくない。
「やらされ感で仕事したいですか?」と聞いたら、100人が100人「そんなの嫌に決まっている」と、言うんじゃないかと思う。
ところが、実際には「いやいや仕事をしている」とか「致し方なく仕事をしている」とか「仕事をしなくていいのならしたくない」とかっていう人が溢れている。悲しい。
どうせなら、楽しく働く人ばかりの世界がいい。
そう思う。
みんなに楽しく働いて欲しい、楽しく生きて欲しい。
そう思う。
個人の側の努力もあるけれど、構造の問題もあると思う。
僕は就活塾とかパーソナルコーチングをやってきて「個人の側の努力」も支援してきたと思う。組織開発の仕事をして「構造の問題」にも取り組んできたと思う。
それで今、自分なりに一つの持論を持つに至り、
それをここに書く。
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「一人一人が本当に幸せな世界」
そこを起点に考えていく。(だから、ヒューマンセンタード、と呼びたい)
幸せは、「感じる」もので、極めて主観的なものだと思う。
同じシチュエーションでも、ある人にとっては退屈、ある人にとっては至福、ということはありえる。
だから「一人一人が本当に幸せ」であるためには、ユニークな唯一無二な唯我独尊な、その一人が「私は幸せ」と思えることが、決定的に重要だ。
・・・ところが「幸せの形」というのは決まっていて、それに沿って生きることが幸せで、それから外れたら不幸になる。そんな常識、物語、文化、ナラティブが、いつからなのか、社会には存在している。
マルクスはそれを「疎外」と呼んだらしい。外在化された「外側の幸せ」を、必死に求めて、必死に獲得して、必死に保持して生きようとする。・・・悲しい。
今の世界は「金銭単一軸での競争社会」になっている。
収入・資産が増えれば「幸せ」で、収入・資産が少なければ「不幸せ」というような、とても単純すぎる常識、物語、文化、ナラティブが、まだまだ大きく存在していると思う。
でも、コロナもあって、その常識や文化は、今着実に崩壊しつつある。
ずっと「おかしい」と思ってい人たちも多いし、「金銭単一軸での競争社会」から降りた人たちもいる。そういう実践例もたくさん見てきた。けど、まだまだ、そういった人たちはマイノリティだったと思う。
金銭単一軸での競争社会は、勝者と敗者を生んだ。そして一部の「真の勝者」と、一部の「降りた人たち」を生んだ。
金銭単一軸での競争社会が激烈になったのは、おそらく割と近年の話だと思う。多分、戦後くらいのことじゃないかと思う。学歴競争、いい会社に入る競争、そういう競争が、社会の基本的駆動力とされていた時代は、戦後のこの60年、70年くらいのことかもしれない。
僕は歴史学者ではないので戦前のことや、江戸時代のことなどは分からないけれど、これほど「金銭単一軸での競争社会」ではなかったのじゃないか、などとおぼろげに思ったりする。
今の子供はどうだか知らないけれど、僕が生まれた昭和の時代は「競争社会」真っただ中だったと思う。「勉強しなさい」と、ほとんどの子供が言われた。「いい大学に行くために」「いい会社に入るために」、それが幸せの形で、それができなければ幸せには生きていけないんだよ、と教えられてきた人は、とても多いのではないかなと思う。
「貴方にとっての幸せは?」「貴方はどう感じる?」そういうことを聞かれて、それを大切にされる、それを生活に中心にされる・・・ということはなかった。
幸か不幸か、僕自身はあまり「親の常識」から逸脱する嗜好性を持っていなかった。親の目をうかがっていたということでもなく、単純にそういう嗜好性だったなと思う。
部活でバスケットボールに夢中になるとか、三国志にハマって本を100冊も買い込むとか、それは「常識の範囲内」だったと思う。
でもとにかく「幸せの形」は決まっていて、それに沿って生きられるように教育する。そういう世界だったと思う。親も、暗黙的にそう思っていて、だから親の愛も「決まった幸せの形」に、子供を矯正していく・・・・という形で発露したことも多いと思う。
今、不登校の数は、非常に多いらしいけど(数は調べてない)、この「疎外」「矯正」を本能的に拒否する子供が増えたのだろうと思うと、僕は喜ばしくすら思ってしまう。「学校という正しさ」よりも「子供の気持ち」を尊重する親御さんが増えている、ということでもあるかもしれない。
もちろん、一つ一つのご家庭の苦労などは、分かりもしないことだけど。。。
学校に入って、少なくとも僕の世代は、中学、高校は「学ぶべき教科は決まっていて」「その教科の点数が高いこと」が、そのまままるで人間の価値の高低を現しているかのようになっていく。
就職活動で突然「自己分析」なるものが求められて・・・ということがあるんだけれど、それについてはここでは詳述は避ける。
学校を卒業して、社会に出て、多くの人は「会社」に入るけれど、会社でも同じ構造が続く。「評価項目」は決まっていて、評価項目に沿って評価される。高い評価を得られるように頑張る。
ゲイリーハメルは「従順」は、付加価値への貢献が低いということを言っているんだけれど、残念ながら、僕が生きてきた社会ではまさに「従順さ」をずっと求められてきている。
自分が目標を設定することなど基本的にない。
「外側から求められるもの」に応えていくのが人生。
そういう風に、社会構造そのものがなっているのだ。
「なんかおかしい」と思っていたとしても、真面目な日本人は「その構造の中で、なんとか頑張る」をしてきているのだろう・・・と思う。
僕は独立して数年したころ、独立の相談がよく来た。「会社員と言う王道のコース、つまり幸せの形から逸れる、外れる、それ怖くなかったですか?」ということが、共通した相談内容だったと思う。それほどまでに「外れる」ということが、怖い社会がずっと続いていたのだろう。
2010年時点の社会と、2020年現在の社会とでも違いはあると思うけれど。たぶん、コロナもあって「王道を外れてもいいんじゃないか」と思った人もたくさんいると思う。一方で「やっぱりこういう時に、大企業にいたほうが給料も減らないし安心だな」という気持ちも起こったりしていると思うけど。
・・・・「一人一人が本当に幸せ」な社会でありたいと思う時に、この疎外、外在化が普通になっている社会構造そのものに、僕は違和感を感じている。
僕自身は運よく、向こう見ずな性格で、えいやと「幸せな形」から降りてしまって、しかも幸運が重なっていて、「やりたい」と思うことが「お金になる」仕事でもあったりしたから、すごく頑張りやすかったというのはある。
個人の努力で「幸せの形は決まっている」という世界から脱出した人たちはたくさんいる。でもまだ、それほど多くはないと思う。やっぱりそれは「幸せな形は決まっているんです」という構造の強さがあって、よっぽど無謀な人とかじゃないと、そこからなかなか降りられないのだと思う。
個人でできる努力もあるけれど、
構造そのものを変えていく必要性もまたあるのだと、個人的には思っている。
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個人にフォーカスして言えば、
個人の幸せから考え始めてみるのであれば、
まず初めに「どんな人生を過ごしたいですか?」ということを問わなければならない。
僕はパーソナルコーチングなどをしていたときにも
「人生の車輪」と「理想の時間割」というワークを多用してきた。
今でも必要なタイミングではよく使っている。
どんな場所に住んで、どんな時間の使い方をして、どんな感情を味わう1週間で・・・ということを描き出してもらう。
ようはこれは「幸せの形を、自分自身で決める」行為であり、大げさに言えば儀式なのだ。
自律分散というキーワードを目にすることが最近増えてきているけど、
まず「自律」ということがとても大事。
・都心と田舎の二拠点生活をしたい
・年収は500万円は欲しい
・週休4日がいい。
・教育の仕事がしたい。
例えば、それが「私の幸せの形」だと。
でも例えば、今の実力や単価だと「週休4日にすると、年収300万円になっちゃう」「年収500万円を取ろうと思うと、週休2日以下になるだろう」というようなことはあるわけで、その現実は引き受けて「じゃーどうしよう?」と、自分なりに考える。
これが「自律」ということだと思う。
この自律、というのはとてもとても大事なところで、
これからの生き方の起点となるようなものじゃないか、と思っている。
ここを自分自身で引き受けて「自分で納得する」ということが、とても大切だと思う。
インサイドアウトで「自分の望み」を素直に描いて
アウトサイドインで「現実とのギャップを引き受ける」
これが自律ということだと思う。
ギャップがあることは悪いことじゃない。
ピーター・センゲ「学習する組織」ではそれは「クリエイティブテンション」と呼ばれている。創造性の源は、ギャップにある、ということだ。
Time is Moneyという言葉があるけど、これは個人的には修正したい。
Time is Lifeだ。
「時間を過ごす」ということは「命を使う」ということ。命とお金、どっちが大事かって命に決まっている。
お金は、命の、人生の、時間の、ツールの一つに過ぎない。
「幸せの形」のパーツの一つに過ぎない。
ヒューマンセンタードの肝は「自律」だなと思う。
一旦、バラバラになった「個人」が、でもまたミッションの重なりや、ライフスタイルの重なりで共同体を形成していくだろう。自律分散協調というのが起こると思う。そこでは(ヒエラルキー構造ではなく)ネットワーク構造が生じ、命令と評価ではなく、対話による「全体性の担保」が起こるだろう・・・ということについては、また今度。
そして、個人的には「計画された成果を生み出す」という計画経済ではなく「方向性はあるけど、いつどこで、どんな”成果”が生まれるか分からない」という創発付加価値の世界を生きるのが、楽しいだろうと思っている。
ただ、世界がどちらだけになってしまう、ということではなく「計画経済」圏と、「創発付加価値」圏とは、社会の中に共存して、お互いの弱点を補完し合うような感じになるのかもしれない、と思う。中沢新一さんのロゴスが前者で、レンマが後者、ということになるのかもしれない。
計画経済圏は、世界観としてニュートン力学的な「閉じた系の再現性」を重視することになる。創発付加価値圏は、「開いた系」であり、複雑系であり、量子力学的な関係性と流動性の世界だということだと思う。
社会的な問題としては計画経済圏の住人は、創発付加価値圏の価値が見えないということ。「お金」は計画経済圏が持っている。でも、そのお金は創発付加価値圏には流れてこない。なぜなら計画経済圏の人たちを「説得する言語」を持っていないから。
この壁をクリアするのには、一つにはベーシックインカムのような社会制度がありそうだと思いつつ、この辺の探求はより一層深めていきたい。より具体的なアイデアを出せるようにしていきたいなと思う。
最近考えていること色々
「楽しく働く人を増やしたい」
やっぱりまずそれがあって。
仕事って、楽しいものだ、楽しめるもののはずだって思っています。
世界中の大人が「楽しく」働いていて、「楽しく」生きていて、
子供が大人を見て「大人って楽しそうだな!」って思う世界、そうしたいとやっぱり思っています。
自分自身は、仕事は楽しいです。
大変な面も勿論あるけれど、基本的に僕は仕事は楽しいです。
仕事が楽しい、っていうのは基本的に二つの側面があって
「自分がしたい、やりたいと思っていることをやっている」ということと、「相手が喜んで(お金を出して)くれる」ということです。
僕自身は運がよかったです。
「自分がしたいこと」が「お金を払ってでもやって欲しいこと」つまり市場があることだったからです。
でも例えば、音楽をやるとか、漫画をやるとか「ほとんど市場がない」ということが「やりたいことだ」という人もいる。そういう人は「経済的に困窮する」か「やりたくないことをやって、経済的には保つ」ということに、どうしてもなってしまいます。
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仕事というのが、「お金を払ってでもやって欲しいこと」に従事する、力関係的にすごくなっている、社会全体でそうなっている。
これ何が起こっているかというと
したい生活(かかるお金)>やりたいことだけで稼げるお金
ってなっているっていうことです。
だからこれは、個人レベルで見ると、
「したい生活(かかるお金)」を下げるか、
「やりたいことだけで稼げるお金」を増やすか、そうしないと生活の質が高まらないのです。
今の社会の仕組みの中で、個人がQOLを高めようと思うと、これはすごく大事なところだと思います。
Strength(好きなこと、やりたいこと)×Skill(お金を払ってでもして欲しいと思うこと)
このバランスと言うのを、個人の中でやるというのは、割と普遍的なことだとは思ってはいます。
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でも、ここで困ったことを感じています。
どうも「個人のレベルで、それぞれが頑張りましょうね」ということを超えてしまっている。
※金持ち父さん貧乏父さんが出たのが2000年。
※希望格差社会が出版されたのが2004年。
※これからの正義の話をしようが出たのが2010年。
ここで「お金を稼ぐのが好きで得意な人たち」というのがいて、何も悪くないんですけど、構造的に必然的に「金利を取る側」になって、「金利を取られる側」との格差を生じさせることになりました。
金利は「お金がお金を生む」ということを可能にします。
それに気づいたロバキヨは「だから、不労所得を得るようにすれば、今の社会は自由に生きられるんだよ」と説きました。
これ、本当にその通りなんです。
今の資本主義社会で「自由」を満喫しようと思うと、金持ち父さんになって、不労所得で、お金がお金を生んで、金利を受け取る側になるのが一番なんです。
でも、当然そうなると「金利を払う側」の人は、大変なことになります。
しかも、新自由主義的な思想は「競争すればいいんだ」ってなる。
「自由な競争の結果、負けた奴は、努力が足りなかったんだ」ってなる。金利を払う側に落ちたのは自己責任ですよ、と。
そして富の偏在というのはすごいことになりました。
「世界がもし100人の村だったら」(初版2001年)
少なくとも「お金」という冨は、ものすごく偏って存在しています。
そしてそのお金は「殖えよう」と動いていて
「金利を払ってくれるところ」へ投資しようと常に動いている・・・という状態が、常態化しています。
家賃や住宅ローンという金利の一種を支払うのに、必死です。
ロバキヨが喝破したように「不動産を持っている側」は「金利を受け取る側」なのです。
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これは革命。
金銭単一軸の競争社会から、もう降りましょう。
降りることによって、革命が起きます。
多軸・主観・流動の世界へシフトするわけです。
コロナが起きて「幸せとは何か」を考えざるを得なくなった人たちにたくさんあってきました。「こんなに家族と過ごせて」とか「こんなに自然と触れ合えて」とか。今までなんであれほど仕事中心だったんだろう・・・・というような人はたくさんいます。
エコノミーセンタードの世界から、ヒューマンセンタードへのシフト。革命。
それはエコノミーセンタードは
・金銭単一軸で
・競争する
という世界でした。
ほとんどの人が、そこに吸い上げられてきていました。
でも、その世界を生きなくたっていいわけです。
例えば、日本全国に空き家がたくさんあります。
とすれば「降りる」ことを選ぶ人は、一気に「住居費」という、最も大きな固定費を下げることができるようになります。
日本の空き家問題の解消にも貢献しているAddressという本当に素晴らしいサービスがありますが、月額4万円で全国住み放題です。
エコノミーセンタードの世界は、
・価値と価格は比例している
・よい生活をするには「価格」を出せる「収入」が必要である
と洗脳してきます。街中に広告が並び「これが幸せの形ですよ!」と洗脳しようとしてきます。
でも、もういいんです。
「自分の幸せは、自分で決めますから」。
そういう「エコノミーセンタードの世界」から離反する人が増えれば増えるほど、社会全体の革命が加速していきます。
ヒューマンセンタードな世界では「主観」がとても大切です。
価格がいくらかなんかじゃないんです。
好きなもので高いものもあれば、好きなもので無料のものもあるでしょう。
自分が「好きだと感じる」ということが、何よりも大切です。
「好きだと感じる」ということこそが、QOLなわけです。
コロナがあって「好きな人といる」「好きな場所にいる」「好きなことをする」ということが”自分にとって”すごく大切なことなんだと、感じた人は多いのではないでしょうか。
その、一人一人の内側から始まる革命が、本当に本質的な革命です。
エコノミーセンタードの世界は、そのままあっていいんです。市場競争に打ち勝って、都心の高級マンションに高い家賃を払って住む。そういう世界も引き続き、世界にあってもいい。
でもヒューマンセンタードの世界は、自分が好きな場所で、好きな人と、好きなことをすることを大切にする世界です。価格に縛られず。
そういう「コミュニティ」が復活するでしょう。
おそらくですが、しばらくは「地域」と「会社」がコミュニティとしての機能を提供することになると思います。
コミュニティは、価値観やライフスタイルがある程度共有され「これがいいよね」という人達が集まって構成されます。
自給自足、手間ひまをかけることを楽しみたいというコミュニティも出てくるでしょう。みんな庭で農業もしつつ、1週間のうち数時間は「オンラインで、プログラマーとしても仕事をしている」というような。
食べるものも、普段使う食器とかも「自分たちで創る」。その面倒さを楽しむ。そんな人たちの集まりコミュニティというものも出てくるでしょう。
「田舎も都心も両方好き」という人達が集まったコミュニティも出てくるでしょう。田舎に週4日暮らして、都心で週3日暮らす。都心では、外食生活を満喫して、田舎では自給自足生活をの楽しむ・・・そんなバランスがいいよねという人達のコミュニティも出てくるでしょう。
一人一人が「自分が好きだと感じること」を大切にして、それを共有しやすい人たち過ごすわけです。
「一人暮らしが最高。コミュニティとか、近所づきあいとかしたくない。全部”サービス”の方が気が楽」というひともいるでしょう。そういう人は都心で一人暮らしをしてUberEatsとか”サービス”を消費しながら暮らすというライフスタイルもあるでしょう。
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【降りる人が増えると、格差も減る。】
例えば、地方に移住します。
そうして「最初に現金で家を買ってしまった」みたいなことになると、住宅ローンや家賃と言った「金利収集機能」を経由しなくなります。
そういう人たちが増えれば増えるほど、自然と「金利商売」は減っていきます。
ちなみにGDPも減っていきます。
自家栽培の野菜で食を保つようになると、野菜の売買量が減るのでGDPは減ります。でも、GDPは減っていいのです。
「年収は半分になったけど、生活は豊かになった」という家庭が、日本中に増えて何の問題もありません。
「経済成長」に取りつかれている政治家や資本家などは驚くかもしれませんが、気にする必要はありません。
「大丈夫ですよ、自分の幸せの形くらい、自分で決められますから」
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【ヒューマンセンタードの世界での会社】
ヒューマンセンタードの中核は
多軸・主観・流動
であると思っています。
エコノミーセンタードでは「金銭単一軸」でした。「それって儲かるの?」「それっていくらになるの?」ということしか聞かれない世界。
ヒューマンセンタードではまず軸は多数あります。「お客さん喜んでくれているかな?」「自分たちはやりがいがあるかな?」「誇らしさがあるかな?」「対価をもらえるかな?」「健康的かな?」・・・などなど様々な軸で検討されます。
そして個々人が「どう感じるか」がとても大切にされます。
主観で、感じることこそが、最も重要だということです。
嫌だとか、嬉しいとか、誇らしいとか、そう「感じる」ことはQOLに直結していることだからです。
ヒューマンセンタードの世界では、その中にある「会社」や「職場」も、同じく多軸・主観・流動を大事にして行うことになるでしょう。
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【量的拡大はしてもいいが、しなくてもいい。】
どんなコミュニティに魅力を感じるかは、人それぞれです。
「甲子園で絶対優勝するぞ!」といった強豪チームに入りたい人もいれば「のんびり怪我無く楽しくみんなで野球をしたいよね」といった草野球チームに入りたい人もいるでしょう。
「甲子園で優勝するぞ!」というタイプの企業も引き続きあるでしょうし、「のんびり怪我無くみんなで楽しくやろうね」というタイプの企業は今後増えていくように思います。
今までは人口増加の背景なども影響しつつ「成長一辺倒」の世の中でしたが、世の中にもっと多様性が増してくるだろうと思います。
ライフスタイルの多様性が増して、ワークスタイルの多様性も増す。そういうなかで「草野球型企業」みたいなことも、増えてくるだろうと思うのです。
草野球型企業は「もっと売上を伸ばすぞ!」などと思っていません。週1回、顔を合わせて、野球ができる。なんだったら野球を口実に、みんなで会って話をするのが楽しいとか、試合ごとの飲み会が楽しい・・・本当はそっちの方が大事・・・なんてこともありえます。
そういうタイプの企業も全然あっていいでしょう。
「エコノミーセンタードの世界」の人たちに「さぼるな!」とか「甘えるな!」とか「GDPが増えないだろう!」とか言われても、気にする必要はないのです。
エコノミーセンタードが正しいわけじゃない。間違っているわけでもないけど、選択肢の一つに過ぎないからです。
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【閉鎖的な村社会との違い】
これだけ「都市」が発達した背景の一つには「村社会の閉鎖性が嫌だった」というのもあると思います。もちろん、エコノミーセンタードの世界が発展していく中で、経済合理性の力学で都市が発展していった面も間違いなくあると思いますが、「出ていきたくなる村社会」も要因としてあっただろうと思います。
出ていきたくなるのは
・あまりにも変化がない
・あまりにも同調圧力が強い
みたいなところであったのではないかと思います。
これから生まれてくる新しいコミュニティは
・適度に開かれていて、流動性もある
・価値観やライフスタイルの同調性はあるが、多様性へも適度に許容している
みたい風になっていくのではないか、と思います。
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【再現性と大量生産】
大量生産はモノ不足時代にはとても大切な社会的技術でした。
そして大量生産のためには再現性(科学性)もとても重要でした。
しかし今はもう「モノ不足」ではありません。
品質の安定した服が安価にいつでも手に入る時代です。
そうなったときに「自分で服を作る」といった楽しみ方が、人生の楽しみ方になってくると思います。
服を買うだけでなく、自分で服を作る。
好きなデザイナーさんに自分だけの服を作ってもらう。
最高の贅沢ですよね。
そういうことがもっともっと普通になってくるだろうと思います。
「手間をかける」価値。
「オリジナル」の価値、みたいなことが相対的にもっと高まってくるだろうと思います。
自分が本当に素敵だと思うものを着る。なければ作ってしまう。
そういう世界です。
金利の影響
■金利は無限成長を求める
※「GDPとは何か」の続編の記事になります
金利はその性質上、無限に成長を要求することになります。だから、GDPを伸ばす方に社会を駆動させようとします。
それはありとあらゆるものを「ビジネス交換化」していこうとすることになります。
「金利」は、その性質上、成長を求めます。「もっともっと」というのが、金利の性質です。(性質そのものに良い悪いはありませんが、状況に合う、合わないはあります)
この70年ほどで、都市化も進んでいます。1930年代ごろに一気に都市化が進んでいます。
稼げる仕事が都心に多いので、都心に人が出てくるようになります。そうするとある種の「他人同士のコミュニティ」が出来上がってきます。
これが金利にとってはとても好都合で、相性が良いものでした。
地方では、例えば「漁師さんが、ご近所さんに魚を振舞う」「お礼に、漁師さんの子供に勉強を教える」などといった、お金を介さない物々交換が行われもしますし、それが成立しやすい面もあります。
しかし都心では、そのような人間同士の関係性が希薄です。その代わり、お金はあります。そうすると「サービス業」が盛んになってくるのです。
近所のお兄さんに勉強を教わるのではなく、家庭教師を雇う。
料理を持ち寄って食べるのではなく、お弁当屋さんで買ってくる。
このようなサービス業が成立しやすいのが都市です。
働くことに忙しく、料理をする暇がない。だからお弁当屋さんがあると助かる。このこと自体は何も否定されるものではありませんが、但し、ここには落とし穴があります。
「近所のお兄さんに勉強を教わる」ということと「家庭教師を雇って、勉強を教わる」ということは、どちらの方が豊かでしょうか?どちらの方が幸せでしょうか?
これは「分からない」のです。それは主観で決めることだからです。
しかし、金利(の影響)が隅々までいきわたった社会においては「家庭教師を雇って、勉強を教わる」ことの方が、よい社会ということになります。なぜなら、その方がGDPが高くなるからです。金利を返済できるからです。
実は金利によって、社会全体が、望むと望まざるとに関わらず、そちらの方向に選択させられていく・・・・このことは大問題だと思います。
極端な言い方をすれば「親や近所の人が子供の面倒を見ることを法律で禁じて、家庭教師業を使うことを奨励する」ということをすれば、GDPは増えます。社会から豊かさがむしろ減っていたとしても、です。
実際に子育て世代は「学費もかかる。塾のお金もかかる。だから頑張って稼がないと。仕事が忙しくて子供の勉強を見ている暇はない」というような構造になっていることがありえるわけです。
これは、立ち止まってみれば「うん?おかしくないか?」と分かることです。
GDPを伸ばし続けよう、金利付きでお金の流通量を増やし続けよう、そうするとその力学によって「総ビジネス交換化」が進んでいくことになります。社会全体の豊かさが棄損されても、です。
助け合いも、持ち寄りも、お金にならないので、どんどんビジネス化していこうとすることになってしまうのです。
実は「三次産業」つまりサービス業は「その流通量が増えれば増えるほど、社会が豊かになっているもの」ではありません。なぜなら豊かさとはきわめて主観的なものだからです。
ですから「経済交換量(GDP)」は維持程度で十分です。
と言うよりもむしろ、実は経済交換量はITなどの技術の発達によって減っていきます。そして減っていっていいのです。
総ビジネス化が行き過ぎると棄損されるのが「相互扶助の精神」のようなものです。全て損得勘定で考えるようになります。「無償で支え合う」ということは、損ですからやりません。人間関係資本は、どんどん棄損されていきます。
それが金利の力なのです。
人間関係資本がとんどん棄損されていってから、さらにそこに「特許」が加わると大変な社会的混乱が生じるでしょう。
社会全体の豊かさは、GDPのみで測ろうとするとおかしくなります。貨幣経済+非貨幣経済の合算で社会全体の豊かさを見ていくべきです。技術の進展によって貨幣経済が縮小しても、非貨幣経済が拡大していれば、社会全体としてはより豊かになっている、ということは十二分にあり得ます。
なお、個人的には貨幣経済も必要だとは考えています。というのは「課税」が、非貨幣経済ではしにくいからです。徴税ができないと、国や行政としてやることができなくなります。国防、防災、教育、医療などは、税金によって賄われていて、これらの機能を維持するには「徴税」はどうしても必要だからです。
【利回り商品、金融商品。特に「住」に関する】
コロナ騒動で、世界は不安でいっぱいなんですが、なぜそれほど不安にならないのといけないのか。
まず、ちょっと考えてみれば「衣食住」がまかなわれているんだったら、それほどあたふたせずに済むというのは想像できると思います。
衣、はまぁそれほど緊急性もないので大きな問題ではないとして
食と住。
これに対して「土地持ちの農家」の人とかは、やっぱり強いです。自分の土地家を持っていて、食べるものもある、作れる。そうだとしたら、まぁ世間が騒いでいても、生きてはいけるという土台の強さがあると思います。
大きな部分は「住」だと思います。
多くの人が「住居費」を負担していると思います。
ほとんどの場合それは「家賃」か「住宅ローン」ということになるでしょう。
これは、両方とも広義の金融商品です。
極論ですが(そして、極論というのは物事の本質を炙り出す際にとても大事なことだと思っていますが)、家賃や住宅ローンという金融商品がなければ、コロナ騒動(リーマンショック以来の経済停滞みたいにも言われてますね)でも、そこまで不安を感じないで済むのじゃないかなと思います。
私は研修講師といった仕事をしていますが、今この講師業もなかなか大変な状況です。役者、歌手、飲食店経営、イベント設営・・・・などの仕事は今かなり苦しいところが多いのじゃないかと思います。
そして「収入がなくなるかもしれない。家賃を払えなくなるかもしれない」という不安は、とても大きな割合を占めているかもしれません。
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ひとまずの対処としては「家賃を下げる」というのは現実的に検討されるべきことなのかなと思います。家賃という大きな固定費が下がれば、破産するみたいなリスクはやっぱり下げられます。
日本全国でいうと「空き家」が問題になっているくらいで、本当は住む家はたくさんあります。
ADDressという素晴らしいサービスがあって、全国住み放題月額4万円とかでやってます。こういうものを知っているだけでも、実は安心感が増すかもしれません。「いざとなったらADDress暮らし始めてみるか」みたいな。
大家さんたちは住人に逃げられて困るかもしれませんが、その困窮度は相対的に高くないだろうと想像されるので、この緊急のご時世、一旦ありじゃないかなと思います。
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短期的に解決できるかはおいておいて、本質的に考えるとこの「家賃」「住宅ローン」というのは、違うようで、ほぼ似たような性質を持っています。
どちらも「利回り」で計算されているということです。
10年で壊れる10部屋のアパートを1億円かけて建てたとします。
そうすると、1年で1000万円以上家賃が取れて、それが10年続けて「儲かった」ということになります。
そうすると、1年1室100万円、月額8万円強の家賃を取ればいいことになります。
でも空き室のリスクなどもあるので、家賃を10万円くらいに設定します。そうすると、常に満室なら年間1200万円、10年間で1億2000万円の家賃収入になり、1億円投資して、2000万円儲かった、ということになります。
こういった考え方をしながら「家賃の相場」というのは決まっていくわけですね。
そしてその際に「色々問題が起こったとしても、ほぼほぼ10年で利益が出るくらいの家賃に設定する」ということになります。もしアパートが10年で壊れなくて、そのまま住み続けることができたら、アパートを建てた人は、そのあとは膨大な「収益」を得ることになります。
まぁ、だから、ロバキヨの本とかでも「不動産による不労所得」がとても推奨されていたわけで、今の経済システムのなかだととても合理的な発想だと思います。
家賃収入と言うのは「土地」なり「空間」なりを所有して、そのスペースの「利用権」で収入を得るということです。だから、土地を一旦買ってしまえば、それ以上の原資はありません。原資以上の収益が出てきたときは、ひたすら収益だけが積み重なっていく、というものです。(建物は老朽化するので、土地と同じには言えませんが)
で、問題は、この「家賃収入を取る側」をやれる人は限られています。かなり、です。そしてこれは普通に「格差拡大」の機能を果たします。意図しようが、しまいがです。
なぜなら、例えば「利回り」を取ろうとしない公営住宅があったとします。もしそういったものが存在していたとしたら、この住宅は「11年目以降家賃は無料」になります。
そしたら、住人の可処分所得は増えます。家主という職業はなくなりますが。
でも、この不動産による利回りを社会的に普通においていると、「利回りがない場合と比較して」住人の可処分所得は減り、家主の所得は増えます。これはほとんどの場合、格差拡大へと機能するでしょう。
ちなみにお金持ちは、多くの場合、不動産を買う時はできる限り「キャッシュで一括」で買います。利息を払わなくていいからです。
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住宅ローンというのもそうなんですが、今は金利が低いので、住宅ローンを貸す側の取り分は減っているとはいえ、似たような構造を持っています。
3000万円の家を買うのに35年ローンを組む。そうすると返済総額は例えば4500万円とかになったりします。
・・・まぁ銀行などがやっているわけですが、銀行は「ローンを組むときの手続きの対応1ヶ月」くらいの労働で、35年かけてですが1500万円の収益を得るということになります。
それが住宅ローンというものですね。
もちろん、貸したけど返せなくなった人もいる、リスクを背負って貸している、わけですが、とは言え「そういうリスクも計算したうえで、利率を考えている」わけで、勝ちの見えた勝負をしている、みたいなところはあります。
保険業界もそうですが、そのリスクの確率の計算をプロがやっているわけなので、危ない相手にはそれだけ利率を増やすわけですから。
資金を持っているところは「貸して、利回りを取る側」をできますが、そうでない人たちは必然的に「利回り分を上乗せで取られる側」になります。今の社会システムをただ観察すると、そうなっているのは間違いありません。
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果たしてこれらの金融商品を、今後も普通に社会に流通させ続けていくのかどうか、それはちょっと考えてみてもいいと僕は思っています。
今すぐにドラスティックに変えるということは、社会的な痛みも大きくなってしまうでしょうけれど、中長期的には変えていってもいいかもしれません。
「どんな住宅事情の国がいいか?」ということについては多様な意見があるでしょうし、それについても国民レベルで色々議論出来たらいいなと思いますが、
極論を言えば「ベーシックインカムじゃなくて、国民全員に(最低限の)家は支給される」みたいなことだって、不可能なわけじゃないと思うわけです。
コロナが落ち着いて「で、これからどうしていく?」って考えるときに、こんなことも考えながら、自分たちで考えた理想像を、一緒に創ってくれそうな人を国会とかにどんどん送り込んでいく。
そんなプロジェクトやるんだぜ、みたいなことも、結構楽しいんじゃないかなとか楽観的に思ったりもしています。
【株価と株式市場】
「NYダウが暴落しています。世界の経済はダメージを受けています」
「各国政府は金融緩和施策を打っていますが、市場の反応は鈍いのです」
そんな抽象的な言葉が、ニュースで仰々しく並んでいました。
株価が下がった。
株価を上げようと政府が金融緩和施策を打った。
でも(市場において)株価は上がっていない。
という事象の本質を、どれだけこの人たちは考えたことがあるのだろう?と批判的な気持ちがわいたりします。
株価が下がるというのはある会社の株を「買う人より売る人が多い」というような時に起こります。
売った、ということは手元に現金があるという状態です。
あるお金持ちの手元に「現金が増えている」というのが株価が下がる、ということです。
(もちろん100万円で買った株を50万円で売ったらいわゆる損をしています。損をしていますが、株を持った状態は手元に現金はありません。株を売れば、手元の現金は、株を持った状態よりは増えているのです。ここで簡単に「お金持ち」と言っていますが、お金の余裕がない人で株式投資にお金を回す人は多くはないでしょうから、分かりやすさ重視で「お金持ち」と呼んでいます)
さて、この「増えた手元の現金」はどうなるのでしょう?
このお金持ちたちは、日常生活で使い切れないお金を持っていて「さらにお金を殖やす」ために、次なる投資先を探しています。
でも、投資先(買うべき株)がないのです。だから手元で現金で持っておくしかない。それが株式市場で株価が下がった、ということの実態です。
分かりやすく詩的に表現すれば「お金がだぶついている」という状態です。それが株価が下がっている、という状態なんです。
だから「世界的に株安になっている」「世界経済は大丈夫か」などと言うんですが、これは「世界的にお金が余っている、だぶついている。お金持ちはお金の使い先がなくて困っている」ということです。
株安になっているということは「お金がない」のじゃなくて、「お金がだぶついている」ということです。そのことを認識するだけでも、世界の見方が変わってくるんじゃないか、と思います。
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そうなると問題は、「なぜお金がだぶついてしまうのか」ということです。それは今のお金は「殖やす」ことを目的に存在してしまっているからです。
お金がだぶついているのなら、必要なところに「使う」ようにすればいいじゃないですか。それが普通の感覚じゃないかと思います。
お金を必要としている領域はいくらでもあります。お金を必要としているNPOをいっぱい見てきました。(当たり前ですが、NPOは株式市場に上場していません)
児童虐待を防止しよう、自殺を減らそう、環境問題を解消しよう・・・・そういったことのために全力を尽くしているNPOがたくさんありますが、その多くのNPOは資金的に苦しかったり、回ってはいても「もっと資金があればできることがもっとあるのに」という状態だったりしています。
だぶついているのなら、そういう社会的に価値ある活動にどんどん回していけばよいのに、そうはなりません。
なぜならその活動に資金を投じても「殖えない」からです。お金が殖える目論見がない。理由はただそれだけです。「金が金を生む」というところ以外には、お金は回ってこないように今の社会システムはなっているのです。
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だとすれば、問題は株安なんかじゃないのです。「必要なところにお金が流れない」という今の社会システムの方が問題なのです。
それは富の集積と分配、富の流れに関する社会システムの問題なのです。純粋な意味でお金が「使われる」ことはまずありません。お金が減っても世界がよくなったんだからいいじゃないか、という使い方は、今のお金は仕組み上、性質上、ほとんどできないことになっています。
金利という概念の問題なのです。
GDPとはなにか
令和になった現在も政府は「GDPが伸びている」「GDPを伸ばすために」といったことを発表したりしています。新聞やTVの報道でも「GDPが中国に抜かれて世界3位に下がった」とか「GDPの伸び率がマイナスになった」といったことを伝えています。
GDPが伸びること、伸び続けることが、社会にとって最重要事項かのように、なんとなく、メディアを通して思ってしまうところがあるかもしれません。
さて、そもそもGDPとは何でしょうか。何をどうやって測っているものでしょうか。
GDPはビジネスの交換量を現しています。売る、買う、という金銭取引が生じたものが記録され、それを国全体で集積した時に「GDP」と呼ばれるものになります。
だから、その実態は「日々の、商売のやり取り量」です。
逆に言えば「商売」になっていない国民の営みは、GDPには一切反映されません。
近所の美しい川でのんびり過ごすことはGDPに計上されません。
お金を払ってレジャー施設で遊べばGDPに計上されます
親が子供の勉強を家庭でみて教えていたらGDPに計上されません。
家庭教師を雇って子供の勉強を見てもらったらGDPに計上されます。
子供が公園で友達とサッカーをすることはGDPに計上されません。
(公共の公園を造るときの公共事業はGDPに計上されますが、その後子供たちが公園で遊ぶ行為、時間はGDPには計上されません)
家庭で、料理を手作りすることはGDPには計上されません。
外食に行ってご飯を食べればGDPに計上されます。
(スーパーで素材を買うことはGDPに計上されますが)
こう並べてみるとGDPというものの意味合いがよく見えてくると思います。まずGDPが増えれば増えるほど、国民生活が豊かになったとは単純には言い難いようである、と多くの方が感じられるのではないでしょうか。
場合によっては「GDPに計上されない方」を選んだほうが、幸せだったり、楽しかったり、豊かだったりすることもある、と容易に想像されるでしょう。
確かにGDPの成長と、社会の豊かさの増進が比例しているように感じられる時代はあったと思います。
例えば、マイカーが1台100万円だとします。全国に100の家庭があるとして、10の家庭にだけマイカーがある状態だと、GDPでは1000万円ということになります。
これが、マイカーの普及率が増えて(マイカーを所有できる人が増えて)、50の家庭で持てるようになればGDPは5000万円、100の家庭全てで持てるようになればGDPは1億円です。
この時、GDPが1000万円から1億円に伸びていったとき「社会全体が豊かになっている」という感覚と、GDPという数値の伸びは、かなり近いものがあるはずです。(ここでは環境問題などは一旦無視して考えています)
ここからさらに自動車産業によってGDPを伸ばそうとすると、どうなるでしょう。一家に一台ではなく、一人一台にしていけばGDPは伸びます。さらに一人2台、3台と持つようにしていけばGDPは伸びます。伸びますが、しかし、これは「社会全体が豊かになっている」と感じられるものになるでしょうか?
「モノ」によって豊かさが感じられるところにはある程度限界があります。勿論、毎年新車に買い替える、一人で何台も所有する、そういうことに「豊かさ」を感じる人もいるでしょうが、感じない人もかなり増えてくるでしょう。「中古の車で充分だ」とか「家族で一台で十分だ」とか「10年乗ってるけど、買い替えの必要は全然ない」といった人もいるでしょう。
自動車の例は二次産業のことですが、一次産業でもGDPの観点から見てみましょう。農業や漁業も当然「買ってもらった分」についてGDPに計上されます。(おそらく漁師さんが自分で獲った魚を家で食べる分は、GDPには計上されていないと思います。)
ではこの一次産業によってGDPを伸ばそうとするとどうなるでしょうか。例えばお米の販売量によってGDPを伸ばすことを考えてみます。全国民に1日3食、必ずご飯をお茶碗一杯食べてもらったとしましょう。その時の米の販売量がGDPで1000億円だったとします。ここからさらにGDPを伸ばそうとすれば、お米を食べる量を増やしてもらわないといけません。(輸出によって外貨を稼ぐというのもありますが、一旦ここでは置いておきます)
そうなると、1日4食、5食、さらに1回の食事でお茶碗二杯、三杯と食べてもらうことでしかGDPは増えていきません。(キロ当たりの価格を増やすことについても一旦おいておきます。重要なことですが、これについては後で説明します)
これは、どう考えても無理があります。一次産業におけるGDPは「国民のお腹の具合」である程度決まってしまっています。ちなみに一次産業GDPを増やそうと考えると「お腹いっぱいにするのにより高級食材の比率を高める」ということによってのみ、一次産業GDPを高めることができます。つまり、100円でお腹いっぱいになるおにぎりではなく、5000円でお腹いっぱいになるステーキを食べれば、GDPは伸びます。但し、このことは「世界規模で見た食糧問題、環境問題」につながることなので、安易にこの道を選ぶことはできません。
※ここで「貿易黒字」を思う方もいると思います。貿易黒字は、自分たちの生活を豊かにしえるものです。その黒字分を使って、海外の品を手に入れたり、海外のサービスを利用したりすることで自国内の生活が豊かになる、ということはあります。但し、ここについてはこの記事では詳細は書きませんが、「ドル建ての貿易黒字」というのは大問題で、これは国民生活に豊かさとしてほとんど還元できない状態になってしまっています。この記事では「貿易」については一旦、外して考えています。
【買う側の懐具合】
GDPは基本的に「売買」が計上されるものです。
だからGDPが増えるには、買う財力も増えていかないといけません。これは基本的には国民の「所得」、つまり給料などが増えていかないといけません。国民全体の給料の総額です。
ミクロで見ると給料というのは「会社の売上・利益から人件費として払い出されるもの」ですが、マクロ(国単位)でみると、どうなっているのでしょうか?
中央銀行⇒銀行⇒会社⇒市場
実は、これは中央銀行が決めているのです、少なくとも決める役割を担っています。(そして、実行部隊として、銀行はとても重要な役割を担っています。銀行が「貸す」と判断することで、本当に市場にお金が流通していくことになるからです)
市場で出回る「お金の総量」は、中央銀行が差配しています(しようとしています)。
それをコントロールすることによって「デフレを防ぐ」とか「緩やかなインフレに導く」ということができる、という考えのもとにやっています。
これは、実は、とてもおかしなことだろうと思います。
実は、GDPを増やしたいのなら、それは簡単なのです。中央銀行が、どんどんお金の流通量を増やせばいいのです。そうすればGDPは増えます。というか、増えるはずです。
(そして実際にそうしようとして、マイナス金利なるものまで登場させましたが、GDPはほとんど増えていません。実際にはなぜGDPが増えていないのかについては別途書きたいと思います)
(実際にGDPが増えていないのは世の中が「もうこれ以上いらない」と言っているからです。お金が余ってしまっているのです。お金が余っているとはどういうことか?と生活感覚からすると思われるかもしれませんが「投資先」がどんどんなくなっているので、お金はだぶついています。「投資」はリターン(利子)が見込まれるところにします。人口拡大フェーズではリターンを見込むことは減少フェーズよりずっと容易でした。今は成熟社会で、ほぼほぼビジネス化は進められてきていて、もう魅力的な投資案件が残っていないのです。そういう社会における最善手は「金利を捨てて“休め”」だと思うのですが、これもまた別途書きたいと思います)
人口1千人の国で、労働者たる市民の平均所得を500万円にしようと思ったら、50億円はお金が流通されている必要があります。
そしてここに、もう50億円流通するように、中央銀行(及び銀行)がお金を回していけば、単純に考えれば、平均所得は1000万円になり、さらに高いものが「買える」ようになり、GDPは増えるのです。
さて、お気づきでしょうか。GDPというのは人口×平均所得というのが大きな要素です。(売買を測っているわけですから、売る方だけでなく買う方も必要です)
なので、人口が増えていく局面では、基本的にGDPは増えていきます。昔の日本がそうであり、少し前の中国や、今のインドなどがそうです。GDPはどんどん伸びていきます。
では人口が横ばい、ないし、減っていくという局面の国のGDPはどうなっていくのでしょうか?
それは、自然に考えれば、減ります。もし、それでもGDPを増やしていこうと思ったら平均所得を増やす以外にありません。そのためには、お金の流通量を増やすしかありません。
さて。
お金の流通量が増えると何が起こるでしょうか。それは単純に言うと「価格」が上がります。売買価格が上がるのです。
今まで1台100万円で取引されていた型の自動車が、突然一台200万円で売買されるようになります。そうすると、GDPは増えるのです。
そしてこの増えたGDPは、社会の豊かさを増したと言えるでしょうか?全く言えないのです。価値、は高まっていないからです。ただ、価格だけが高まっている。それでもGDPは上がったことになります。GDPというのはそういう代物です。
全く同じカローラが、去年は100万円でした。今年は200万円で売買されています。そうするとGDPも倍になっています、ということです。
そのカローラの性能が上がったわけでも、カローラに乗ることで得られる利便性や楽しさが増したわけでもなく、ただただ「取引価格」が高くなれば、GDPは伸びます。
【価値と価格】
自動車のエンジニアが、一生懸命仕事をして、乗り心地を良くして、安全性能を高めて、機能を増やして・・・そしてフルモデルチェンジして販売された新車は、旧車と同じ販売価格で200万円。そんなことは普通にあります。
そうなるとGDPは増えません。価値は増えているのに、価格が上がらないとGDPは増えないのです。
なぜ価格が増えないかと言うと給料が増えていないからです。マクロで見れば、価格が上がるということは、買う側の給料が増えるということとセットです。
「人口維持社会」では、基本的には給料が増えません。GDPは増えない。価格は変わらないようになりやすいようです。価値は高まっても、価格は増えないとか、価格は基本的に決まっていて、相対的な価格調整に入る、ということです。(テレビより、スマホの方が相対的に価格が高い、となるようなことです)
でも、価格が高まらなくても価値は高まっていきます。そして、それでいいのです。より安全で高機能な車が、以前と同じ価格のまま手に入る。それでも社会の豊かさは高まっているのです。
重要なのは価値であって、価格ではありません。
遊びのようですが、今持っているみんなのお金に「0」を一つ、みんなでいっぺんに足して使えば、GDPは10倍になるのです。少なくとも貿易を無視した国に閉じた系で考えれば間違いなくそうです。
そんな数字にはほとんど何の意味もありません。重要なのは、実体経済、本物の価値の方です。
私たちは、急いでGDPに変わる「社会の豊かさ」を現す指標を開発する必要があるのだろうと思います。
大量の失業者が出るのかもしれない
コロナの影響で、大量の失業者が出るだろうな、と思っている。
飲食店、旅館ホテル、イベント事業などは5月末まででも倒産・失業は出るだろうし、6月以降も、感染リスクと共にある社会になったときに、以前と同じように飲食店やイベント事業などが経営できるとは思えない。
もちろん需要が伸びる事業もある。UberEatsなどは、これからどんどん伸びていくかもしれない。
そうなったときに、例えば、旅館の仲居さんだった人が、Uberのドライバーになっていく・・・みたいな構造の変化はどうしても必要なんだろうと思う。
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いくつか思うことがある。
旅館が倒産したとして、仲居さんが失業したとして、それは「自己責任」なのか、ということ。
僕は、これは自己責任を超えていると思う。未曽有の事態だ。誰も予測することなどできなかった。真面目に経営していた旅館なんかでも、普通に倒産したりするだろうと思う。それを「経営者として予測や準備が足りなかった」というのは、ちょっと厳しすぎる、と僕自身は思う。
しかしだからと言って公的資金を注入して寿命を延ばせばいいというものでもないと思う。ワクチン開発などの要素がどれくらいの時期になるか分からないけれど、1年、2年と言う単位で「そもども業界全体の需要」が減ったとしたら、それはとても支えきれない。
むしろちゃんと廃業して、新たに需要が大きくなっているところへ「労働者の流動」があることは、とても大事だと思う。
その流動の支援にこそ、公的資金が使われれば、と思う。
でも。
誇りや喜びをもって「仲居さん」をやっていた人に「はい、明日からUberのドライバーになってください」というのは、単にお金だけの問題ではない。。。それを思うと、とても胸が痛い。
10万人が失業したとして、5万人は「新しい仕事」へ移行できたとして、残りの5万人は「しばらく生活保護として暮らす」とかになるかもしれない。既に200万人以上が「生活保護」で暮らしている社会で、5万人増えただけとかなら、それほどの規模感じゃないかもしれないけれど、それでもこれは国家財政から負担することには勿論なる。
その時にとても思うのは、自己責任論みたいなのを持ち出して、自分自身を責めたり、他者を批判することがないといいな、ということだ。
そして「新しい社会で、新しいニーズのある職業へシフトする」ということが、やっぱりできる限り(メンタル的にも)スムースに行われるといいな・・・とどうしても願ってしまう。
withコロナのフェーズが終わって、Afterコロナい入った時には「昔あった仕事」も復活するかもしれない。旅館業もイベント業も復活するかもしれない。でも、その間の1~2年を、仕事をしないというわけにもいかないだろうから、本当に雇用の流動がスムースに行くことを強く願う。
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やっぱり僕が思うのは、コロナでの倒産とか、失業とかは自己責任を超えているって言うこと。
だから、これはもう、みんなで支え合ってやっていくしかないんだと思う。
10万人が失業したとして、年収300万円×10万人で、3000億円かかるとする。このお金はさ、みんなで頑張って稼いで、出し合って支えるものなんだと思う。6000万人の労働者で出し合ったら、単純計算で一人5,000円出せばいいんだからね。
だから「コロナ失業支援特別徴税」みたいなのがもしあったら、僕は黙って普通に出したい。(それとは別に今の財政運営とか意見すべきところはちゃんと意見したいと思っているけど)
僕は、組織の基本機能の一つは「保険」だと思っていて。国という大きさの組織もそうで。「みんなでお金をだしあっておいて、誰か特別困った状態になった人がいたら保険金を支払う」っていう機能。
国って単位で「支え合って生きている」みたいなのを実感するにはちょっと大きすぎて。都道府県みたいなレベルだって正直、大きすぎる。
だからホントは地方分権、もっともっと「街」とか「村」みたいな単位で支え合えるといいなと思うけど、そういうのはおいおい進めていくとして。
日本全体で支え合っているんだって(ワクチン開発とか世界で支え合ってやり始めた)、そう思ってこの難局を乗り越えていきたいなと思う。
そして、実際ここまで、日本全体で支え合って、欧米用の激烈な医療崩壊は防いでこれているのだと思う。
コロナで「需要が伸びていく」っていう産業にいる人達は、がんがん仕事して、がんがん稼いで、がんがん納税したらいい。そして、その税金で、失業者の新しいスタートをがんがん支援出来たらいい。納税じゃなくて、直接寄付するみたいなことだってできる。いいと思う、職業訓練校的なところに寄付をするとかだってあるかもしれない。
もっと社会全体で「仕事」を減らして、のんびり暮らしたらいいよなぁ、っていう次元の考えもそれはそれであるけれど、それはそれでやっていきつつも、まずはできるだけみんなが落ち着いた生活をスタートできるよう、この2~3年の生活を、頑張っていきたいなと思う。
5/3現在、コロナで感じていること
感染症のパンデミックなどは、社会の状態をデフォルメする機能があるという。
今回のコロナで「浮かび上がってきた」ことは、人それぞれだろうと思う。
ひとまず、僕にとって「浮かび上がってきた」ことを書いてみる。
■「濃厚接触」の豊かさ
ライブなどができない。
埼玉で行われたK-1がやり玉になって、そこから多分ほとんどの「イベント」的なものはなくなっているだろうと思う。
そして代わりに、多くのアーティストなどが、Youtubeなどで動画を配信したりして「自宅待機」を少しでも楽しませようと頑張ってくれている。
そうして、多くの人が感じているのは「濃厚接触」の意味や、素晴らしさじゃないだろうか。
やっぱり、Youtubeでみんなでスレッドを共有してライブを見ても、ドームでみんなで一緒にライブするのには敵わない。
孫がおばあちゃんとテレビ電話しても、「一緒に遊ぶ」にはやっぱり敵わない。
恋人同士が、キスやハグをすることは、バーチャルでは叶わない。
自粛ムードが強まった桜の時期は、桜すら見れなかった。今のデータを基にしたら「距離を取って散歩しながらなら見てもいいですよ」とかなっていたかもしれないけど。桜なんて「生」で触れないと、意味が失われるものの代表格だと思う。
生の価値、ライブの価値、「今」の価値、「一緒にいる」ことの価値。そういうことの価値を、ひたすら感じる経験になったんじゃないか、と思う。
これからも、技術的には、VRやARなども進んでいくだろうと思う。必要に応じて「オンライン飲み会」と「オフライン飲み会」は使い分けられるようになるのかもしれない。
もちろん、デジタルやバーチャルの価値はあるし、そこでしかできないことも多々ある。zoomは「話し合う」ことの物理的距離を一気に縮めてくれている、とかもあると思う。
でも、それでも残る「濃厚接触」に、人間がとても価値を感じるのではないか。ある意味「リスクを犯してでも」濃厚接触をするということは、それだけの愛情や、価値や、意味などがそこにある、ということだろうと思う。
"Live"ということの尊さや貴重さということを、嫌というほど実感する機会になった、と僕は感じている。
■リモートワークの「できる」と「できない」
一方で「なんだよ、満員の通勤電車に乗らなくても結構仕事になるじゃないか」みたいなことも多々体験されてきているのだろうと思う。
実は「オンライン」とか「デジタル」でできることもたくさんある。
僕の仕事の一つは「研修講師」だけど、研修講師仲間の多くが「e-laerning」に対して、懐疑的だった。「やっぱり、ライブだよね」と。でもこのコロナの状況になって、オンラインでの研修をせざるを得ず、実際にやってみると「意外といいんじゃない、オンライン」となっている。正直、僕もその一人だ。
オンラインでできることも、たくさんある。
オンラインでできることは、オンラインでやればいい。分かりやすく一番短縮されるのは「移動時間」だ。
オンライン医療診断で、移動時間が無くなる。
オンライン会議で、移動時間が無くなる。
もう一つオンラインのいいところは「距離の壁」がなくなること。
実際に僕も、たぶんこの状況下でなければなかったであろう「滋賀の人たちとのオンライン対話」を経験した。対話、ワークショップといったことも、オンラインでかなりの部分出来る。
オンラインでできると「人数制限」も減ってくる。会場を借りてワークショップをするのなら、会場費もかかるし、集められそうな人数の会場を予約する、などという計算をしなければいけない。
けれどオンラインのイベントなら「会場費」も「会場人数」も考える必要性がぐっと下がる。
オンラインでできること、オンラインの方がむしろやりやすいこと、オンラインの方がメリットが多いこと、がたくさん浮き彫りになったように思う。
一方で「やっぱり出社したい」とか「出社しないとできない」ということも、見えてきたように思う。
会社のことが好きな人たちほど「出社したい」「一緒に仕事がしたい」という欲求があることを感じる。「職場」は、単に機能的に仕事が遂行されればいいだけではなく、それ以上の何かの価値を持っている。
それから、スーパーマーケットのように「そもそも出社しないと仕事にならない」ものがあることも見えてきたと思う。
「ハンコを押さないといけないから出社しないと」みたいなことは、いち早くオンラインでできるようになればよい、といった「残課題」みたいなことも見えてきたと思う。
もう一つ「カフェでのおしゃべり」みたいなこと。これはオンラインで代替できる部分があるなと思いつつ、でも完全に代替できるわけではやはりない、とも思う。このグレーゾーンの研究は、今後人生の意味や価値の理解を深める糸口になるかもしれない。
「一緒にみている風景」とか「一緒に感じている風」とか「取り分けて食べるご飯」みたいなことの意味や価値。でも、言語コミュニケーションだけでいえば、オンラインでもあまり劣化しない。この辺は大変興味深いと思う。
オフィスでいえば「タバコ部屋」みたいなものは、オンラインで代替することはとても難しそうに今のところ感じている。タバコ部屋は「自分のタイミングで行く」「たまたまのご縁で同じタイミングで吸う」「なんとなくスモーカー同士の連帯感がある」みたいな要素があると思うけど、あれはオンラインではなかなか実現されない「場」だなと思う。
■「ライフライン」の尊さ、重要性
多くの「不要不急」に自粛が求められる中で、ライフラインとして活動の継続が必要、求められているものがある。
病院。スーパーマーケット。宅配便。農家、漁師。などなど。
これらの多くが「オンライン」ではできない。
もっと技術が進めば「ロボットがコメを育てて、農家はオンラインでロボットを操作する」とかっていう時代は来るかもしれない。
でも少なくとも今は、そうはなっていない。
スーパーマーケットもそうだ。未来はもしかしたら全部AmazonGoみたいな無人スーパーになるかもしれない。でも今時点ではそうでなく、今時点では、日本人にとってスーパーはとても大切なライフラインなのだ。
そこで働く、例えば「レジ打ちのパートのおばちゃん」は、命を懸けて、ライフラインをつないでくれている。
こういった仕事の、尊さ、重要性ということを、これまた嫌というほど感じる経験を今していると思う。
もう一つ「子育て」もオンラインではできない。保育士さんなどの仕事は、オンラインでは代替できない。ざっくり10歳以上ならオンラインでできることも増えるだろうが、10歳未満は「一緒にいてくれる」ことが、とても大切だ。
・・・個人的には、問題を感じているのは「保育士」「農家」「漁師」「スーパーのレジ打ち」「宅配便」「看護師」といった職業は、一般的に言って決して「高給取り」ではない。これも、個人的にはあらためて違和感を浮き彫りにされている。
■「固定費」特に「家賃」の重さ
さて、これほど多くの人が「困った」状態になっているのは、一つには「家賃(住宅ローン)」という存在が大きい。家賃は、いわゆる固定費の中で、多くの人にとって最大のものだろうと思う。
もし家賃というものが世の中になかったら、「不要不急の外出を控えてください」「経済より命が大事です」と言われても、困る人は非常に少なかっただろうと思う。
もし国民みんなが半農半Xでかつ「家賃を払う必要のない持ち家」に住んでいたとしたら。もしそうなら「へー、しばらくとりあえず農作業に勤しむか」でおしまいだったと思
食べるものは自分で創る。とりあえず雨露をしのげる家はある。だとしたら何もジタバタする必要がない。
でも今ジタバタしないといけないのは、一つには「家賃」です。ホテルも、飲食業も、なぜみんな困るかと言えば「売上は立たないのに、固定費として家賃は出ていく」から。だから赤字になる。
これが変動費だけであったら「赤字」にはならなくてすむ。「収支ゼロ」ですむ。これは全然違うこと。
この固定費として家賃・・・これは考えざるを得ない。
ちなみに「家賃収入」は不労所得の最たるものだ。
それがまさに「不労所得」であるということを、往年のベストセラー「金持ち父さん貧乏父さん」がまさに言い当てていた。
働かないで(不労)で、場所貸しだけで収入を得ている不動産所有者。
働いて(労働)で、日銭を稼ぐ飲食店の店主。
このどちらが今、苦境にあるのかは一目瞭然です。
このことは、このまま放置し続けていいのか、とても大切な問題だと思うし、それが「問題である」と、今回のコロナは浮き彫りにしてくれたように思う。
■お金の巡りの悪さ
上記の「不労所得」もそうだけど、少し前に「NYダウが暴落している。大問題だ」みたいなニュースを見て、僕が憤ってしまったことを書いたんですが。
あらためて書くと「株価が下がっている」ということは「持っている株を売った人が多い」ということ。そして株を売った人は、手元に現金を持っている。(買った時より、売った時の方が株価が下がっていたとしても、手元に現金がある、なのは間違いない)それは言うならば「お金がだぶついている」ということなわけで。
そして、その手元の現金で「次に買う株がない」となっているから、株価が上がらないでいる、というのが"株価が下がっている"という現象が起こる。
でも「お金を必要としている」ところはたくさんある。家賃が払えなくて廃業しないといけないかもしれない飲食店、防護服が足りない病院、自宅待機でDVの可能性が高まっているところを支援するNPO・・・いくらでもお金を必要としているところはあるのだけどれど、そこにはお金が回ってこない。
お金はだいぶついているのに、お金が必要なところに回ってこない。
なぜそれが起きるかというと、お金は「殖やすものだ」という概念があるからだ。それは基本的に今流通している通貨は全て「金利を背負って存在している」から。
だから「殖やせそうもないな」というところにはお金は回ってこない、今の社会では。それでめぐりが悪くなってしまう。
なぜ、いまこれほどまでに「多くの人が困った」状態になっているかというと、それは金利の存在が大きいわけです。家賃、というものも金利の兄弟です。株価がさがる、というのも広く言えば金利の話なのです。
金利はお金の巡りを悪くするところがあります。拡大局面では、金利はほとんど問題なく機能するけど、縮小局面では、デメリットが非常に大きく見えてくる。まさにパンデミックは「強調する」「浮かび上がらせる」のだなと思う。
世界全体で見るともしかするとまだ「拡大局面」を続けられるのかもしれないけど(個人的には全くそう思ってないけど)、少なくとも日本社会は、少子高齢か、さらには人口減少社会になって、「縮小局面」に入りつつあるわけで。
その「縮小局面」において、今までと同じように「金利」を社会においておくとどうなるのか。減価する貨幣がいいのではないかとか。このことについては真剣に議論されるべきだろうと思っている。
■政府の肌感覚のズレ
もう一つ、今回「政府は何やってんだ」と思った人もたくさんいるのではないかなと思う。
アベノマスクなどと揶揄されたりしていますが、どうにも自分たちの感覚と合わない、そう感じている人も多いのではないかと思う。
政府の感覚と、自分たちの肌感覚がズレるのは当然と言えば当然で、日本の国政選挙の投票率はだいたい50%前後ですから、国民の半分ほどは「政府を選ぶ、という行為に参加していない」わけです。
だったとしたら、そりゃズレていても不思議じゃないよな、というのは前提としてあります。
議会制民主主義というのは、なかなか難しい。
少なくとも今の政治の仕組み、民主主義の仕組みとしては「日本社会の多様性を反映する、多様な議会」にはなりにくい。
例えば分かりやすく、マイノリティは議席をほぼ獲得できない。小選挙区制においては「選挙区で一番人気」の人だけが議員になるから。もちろんマイノリティを代表する議員は「一番不人気」になる。なぜなら、マイノリティですからね。
でも、国全体の分布図でいうと、例えば「男性46%、女性45%、レズ4%、ゲイ3%、その他2%」みたいな分布があったとしたら、議員は「男性51%、女性49%」みたいになるわけですね。それが小選挙区制の、政治制度です。
少なくとも、そもそも国会が「多様な市民の状態を代表する(反映する)場」になっているためには、例えば「全て比例代表で選ぶ」みたいなことをする必要があるかもしれない。(それはそんな単純な話でもないのけど、一つの選択肢として)
民意をしっかりと国会に届けるためには、こういった政治の仕組みについても私たちは考え、変えていく努力をしていかなければならないのだと思っている。
競争社会
競争社会。
この競争ということは、今の世界で普通にある。
雇用の中心は、企業で、
企業活動の基本として「市場での競争」がある。
「競争に負けたら倒産してしまう」といった危機感をもって、仕事をしていかなければならない・・・といった思考パタンはとても普及しているように思われる。
「学歴競争」も今も普通にあって、より高い点数を取って、よりよい大学にいって、そうすればより給料の高い企業に入って・・・・幸せになれるはずだ・・・・といった思考パタンも、社会全体で普及度の高い思考パタンに思える。
マルクスが「疎外」ということを言っていると、こないだ教えてもらったのだけど、この競争社会とは、疎外そのものだなと思う。
自分自身に正解はなく、外側に正解があり、
外側に対処できる自分になること、
それが生き方として奨励されることになる。
競争社会では、根底は生存戦略。
「対応できなければ滅ぼされてしまう」というベースの世界観がある。
この「対応できなければ滅ぼされてしまう」という世界観で、
今の世界の多くの部分が成り立っている。。。
なぜ、どのようにして「競争社会」が生まれてきたのか、それについても興味はあるけれど(縄文時代とか、江戸時代とかは、社会のなかでの競争性は低かったんじゃないか、、、みたいな印象も持っている)、それよりも、今ここにおいて、そして未来において「競争社会」を維持していきたいかどうか、が大事な問題だと思っている。
▼勝者も敗者も”満たされない”構造
競争社会では、もちろん勝者と敗者が生じる。
敗者は、得られる収入もすくなく生活の自由度も低く、満たされない。
しかし、勝者もまた、満たされない。
勝者は「自分自身」を大切にしてきたわけではない。
むしろ自分を殺して「市場に適応する」ことに長けていたりする。
自分を殺しているから、勝者になれる。
自分を殺すことをやめたら、敗者になってしまう。
だから、自分を殺し続ける。だから、いつまでたっても満たされない。
自分自身を生きていないので、満たされていない。
満たされていないので、外在化された価値基準においてなんとか充足を得ようとする。
映画「華麗なるギャツビー」みたいなものだ。
勝者は「私は幸せだ」と喧伝する必要がある。
根本的に満たされていないから、周囲からの賞賛を常に必要とする。
・・・もちろんここで書いていることは極論で、実際の「一人の大金持ち」が、絶対に全員満たされていない、などということにはならない。でも、こういう構造を持ちがちだということは、競争社会の特性として言えると思う。
満たされていない勝者は、不安から「より富を蓄えよう」とする。
自分自身に自信がないので、自信の根拠となる富を蓄えておきたくなる。
マネーゲームに長けた勝者は、金利なども上手く活用するので、より多くの敗者を生み出していく。
競争社会は、満たされない勝者と、満たされない敗者を大量に生産していくことになる。
▼「対応できなければ滅ぼされてしまう」という世界観を、ベースの世界観として共有することは本当に効果的なのか?
もちろん例外もあるが、私たちの多くは「競争社会」という前提を子供時代から刷り込まれていく。学歴競争、収入競争、企業ブランド競争・・・そういった競争のなかで「個人がいかに勝ち抜くか」ということを、刷り込まれていく。
周りは敵である。限られたイスを奪い合っている。友達が合格すれば、自分は不合格になる可能性が高まる。
「全体」を考えることはなくなる。「自分が生き残ることが大事だ」ということになる。だから、クラス全体とか、学校全体とか、社会全体にとっての共通善は何か?共通善のために自分はどうありたいか?などを考える機会はほとんどない。
自分だけのために頑張る。それが生存戦略。そして「神の見えざる手」理論で、それがよいことだとされる。一人一人は、自分自身の私利私欲を追求すれば「市場」が、勝手にそれを調整してくれる。
・・・けれど、競争社会においては「市場」は、実際にはそんな素晴らしい調整を果たしてくれてはいない。ここまでの「事実」がそれを物語っている。
もし、そのような競争社会を前提とし、市場の調整が完璧に機能するのだとしたら、例えば一つの要素として、社会においてこれほどの自殺者の数はないだろう。何か、機能不全の部分があるはずだ。(自殺ということも、調整の一部と考える考え方もあるかもしれないけれど、僕はそれには与することはできない)
競争社会では、子供たちは、生まれてすぐに「外在化」される。
あなた自身がどうしたいとか、どう生きたいかよりも「社会が求めるキャラクターになりなさい」と言われる。貴方自身の好みや、思考や、価値観などには価値がない。
競争社会で生き抜いていくには、社会が求めるものに対応できるようになりなさいと教育される。
競争社会においては、その教育は合理的だから。
そして、前述したように、それに適応できる満たされない勝者か、それに適応できない敗者を生み出していく。
敗者になってしまえば、冷たく自分を突き放してくる「社会」。
その「社会」に適応できるように頑張りなさい。
自分に冷たくしてくるモノに対して、生き残るために、尽くしなさい、
そう言われて育つことになる。
実際に「資産を貯めたらリタイアして、自分がやりたいことをやりたい」というような勝者も多い。満たされていない、ということが分かっているのだ。
だから、資産として不動産や金融資産をもって、不労所得を得て、労働所得者から「金利収入」を得て、やっと安心して、自分のやりたいことをやれるようになる。田舎でのんびり釣りをする。そんなことが起こったりする。
「のんびり過ごす」というようなことは「競争社会を生き抜けるだけの資産を築いた人だけの特権」みたいになる。
競争社会で、自分を殺して頑張ってきた人は「自己責任論」が大好きだ。
敗れた人間は努力が足りなかった。その人間自身の責任だ。そう言う。
累進課税みたいなことも嫌いである。「どうして、この恐ろしい競争社会を生き抜くために死ぬ思いで稼いできたのに、努力不足の敗者のための社会保障なんかのために、より多くの税金を納めないといけないのか」と言う。
そりゃそうだろう、「自分を殺して頑張ってきた」ことが報われない。
競争社会を前提とするのなら、累進課税なんて、整合性がない。
(希望格差社会で描かれたように、格差が相続される世界においてそもそも「公平な」競争が行われているのか、という議論はそれはそれで大事)
▼非競争社会だとダメなのか?
そもそも子供に接する時に「あなた自身に価値がある。あなた自身が、自分がしたいと感じることをすればいい」と育てると、それは問題があるのだろうか?
十分に自己受容を持った子供が育ちそうである。
「自分がしたいと思ったことしかしない」となると、おそらく二つの困ったことが起こる。
一つは「周囲の人が、それをしたくないときはどうするか」ということ。
もう一つは「飢えてしまったらどうするか」ということ。
自分は例えば、サッカーがしたい。
でも、周りの友達はみんな野球がしたいという。
そうしたら「自分一人でリフティングでもするか、みんなに合わせて野球をするか」などを選ばなければならない場面は出てくる。
そして、それも、本人が選べばいいだろう。そこで感じる葛藤なども含めて、そうやって「社会」の中で生きていくことを学ぶ。
もう一つは、例えば「画家になる」などと言って、毎日絵を描いているが、一枚も絵が売れない。収入がない・・・などということになる。
その時も、理屈でいえば、本人が選べばいいと思う。「餓死してでも、他のことはしない」とするのか。「好きな絵を描けなくなるのも嫌だから、バイトくらいするか」みたいにするのか。
このように「競争」という文脈が出てこない育てられ方をした人間たちが形成する社会は、それほどひどいものになるのだろうか?
ここには、勝者もいないけれど、敗者もいない。
でも、みんな「満たされている」。自分人生を生きている。自分の人生を謳歌している。
外在化された一つの価値基準に、自分自身が疎外されたりしていない。(そんな社会なら治安も良くて治安維持費とかも少なくてすむ、健康な人が多くて医療費も少なくてすむ・・・なんて気もしてくる)
感謝、を適切に持つこともできるだろう。
社会全体や歴史について適切に学んでいることで「蛇口をひねれば水が出てくるのは、水道局の人たちが日々支えてくれているのだなぁ・・・」といったことを感じる感性は、社会のなかで身に着けていくこともできるだろう。
「支えてもらっているから、自分も恩返し、恩送りしていきたいなぁ」というような自然な気持ちが醸成されていくこともあるかもしれない。
そのような育てられ方をしていったとして、何か問題があるだろうか。
ふと疑問に思ったことがある。
日本には「生活保護」という仕組みがある。
これは「日本国民として生まれたからには、最低限の生活は国が面倒を見るよ」というような仕組みだな、と思う。
これはベーシックインカムと何が違うのだろうか?
「最低限のところは、国が絶対に面倒を見るよ」と言っているのだ。
確かに「一律で、毎月定額振り込まれる」ではない。
でも「最低限になったら」「毎月定額が振り込まれる」仕組みは既にあるのだ。
・・・・もう一つ関連して、なぜ自殺者がこれほどいるのだろうか。
生活保護、という仕組みはある。だとすれば、衣食住に困窮して死ぬわけではない、という理屈は言えると思う。
・・・それはやっぱり競争社会のパラダイムなのだと思う。
「敗者」というレッテルが、人間にとってとても苦痛なものなのではないか。
「生活保護を利用しなければならないほど困窮した」という状況に対して、競争のパラダイムは、敗者のレッテルを押すだろう。
だから、生活保護は、「ベーシックインカム」というようなニュアンスを持たない。
ベーシックインカムは敗者への保護策、ではないのだ。
ベーシックインカムは「命は、等しく、どれも大切」という思想の現れとして、ある。
実は逆に言えば「命は、等しく、どれも大切」という世界観が共有化されたときには、今の「生活保護」の仕組みであっても、仕組みとしては既に十分なのかもしれない。
・・・社会全体のパラダイムのようなものが、変容していくことを願ってやまない。